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アショカツアーズ流インドの歩き方

インド・ネパール観光名所の記事一覧

サンカシャ 三道宝階降下の地

2015年01月06日 10:00

お釈迦様の誕生1週間後に、母君マヤ夫人はこの世を去られました。悟りを得られたお釈迦様は、天上界の忉利天に居られるマヤ夫人に説法される事を念願されます。ある時、祇園精舎のガンダクティー(香堂)から天上界に昇り、マヤ夫人に3ケ月間の説法教化をなされ報恩を果たされました。お釈迦様が3か月間居られないことで、地上界は大騒ぎになります。コーサラ国王プラセナジトは、ショックのあまり病気になってしまいました。その後、再び地上界に降下された場所が、サンカシャです。その際、3つの階段が天上界から築かれ、中央の黄金の階段からお釈迦様が、右側の白金の階段から払子を手にした梵天(ブラフマー神)が、左側の瑠璃の階段からお釈迦様に天蓋を翳した帝釈天(インドラ神)が降下されました。


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サンカシャまではアグラから車で約5時間、鉄道駅エタワからは車で約4時間を要します。近づくにつれ、悪路になってきます。他の聖地から地理的に外れ、交通の便も良くないためか、訪れる巡礼者は多くありません。八大仏跡の中で、最も素朴なたたずまいにあります。


 


●アショカ王柱とストゥーパ


畑の中の田舎道をしばらく進みサンカシャの聖地に入ると、最初にスリランカ寺があり、その先に、大きな菩提樹と、アショカ王が仏教布教のため建立した「アショカ王柱」があります。



柱頭部に載せられていた象の彫刻が残っています。顔面が破損しており、説明がなければこれが「象」であるとはわからないかもしれません。



さらに進むと、崩れかけた四角形のストゥーパーがあります。



法顕や玄奘がサンカシャを訪れた時には、『伽藍もあり1,000人以上の僧が居た』と記録されています。しかし今日、往時をしのばせるものは、ほとんどありません。


 


●ヒンドゥー教の祠堂


ストゥーパからさらに上、整備されていない坂道の頂上に、ヒンドゥー教の土着信ビサリ・デビを奉った祠堂があります。



 


●サンカシャでのご宿泊


ロイヤルレジデンシーホテル(2011年オープン)



以前はスリランカ寺の宿坊以外、泊まる場所がありませんでしたが、ようやくホテルが完成しました。


アグラからの日帰り観光が多いのですが、昼食に暖かいお食事をご提供できるようになりました。(夏期は休業のため、アグラからお弁当を持参します。)


ホテルに併設して、日本寺があります。



日本人僧侶の方が、“聖地サンカシャに祈りの場をつくりたい”と発願し建立されました。



サンカシャにお越しの際は、是非お参りください。


 


<<< サンカシャを訪れるツアーはこちら >>>

バイシャリ 猿王奉蜜の地(第二結集の地)

2015年01月05日 10:00


竹林精舎と祇園精舎を拠点に遊行し、教えを広めたお釈迦様は、何度となくバイシャリに立ち寄られました。ある時、お釈迦様一行が托鉢をしていると、猿の王がマンゴの蜜を集めお釈迦様に供養しました。


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バイシャリは、リッチャビ族が治めていた国の都で、猿王がマンゴの木から蜜を集めてお釈迦様に奉納した“猿王奉蜜”の舞台です。また「BC337年に第二結集が行われた地」でもあります。お釈迦様の入滅後に8つに分骨された舎利の一部をめた『リリック・ストゥーパー』等、多くの遺跡が残ります。


●バイシャリ遺跡群


バイシャリは、かつてマウリヤ王朝の都が置かれた「パータリプトラ」(現在のビハール州都パトナ)からガンジス河を越え、北へ約80㎞に位置します。ガンジスのスケールの大きさを体感できる、全長5575メートルの大橋梁を渡って訪れますが、橋が開通する1982年以前は、連絡船で1時間30分をかけ河を渡っていました。(お釈迦様がしばしばここを渡られた事から、“ゴータマの渡し”と呼ばれていました。)



バイシャリの遺跡群からは、紀元前2世紀から紀元後5世紀のグプタ王朝期までの、僧院・ストゥーパー・奉献ストゥーパーなどが折り重なるように発掘されています。柱頭部に獅子の像を載せたアショカ王柱も1本残りますが、このアショカ王柱については、アショカ王以降の時代につくられたとの説もあります。(アショカ王:マウリヤ王朝3代目、カリンガーの戦いで戦争の無常さを悟り、仏教を保護し社会福祉の充実に尽力した名君として知られます。)




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●リッチャビ族が仏舎利を納めた リリック(RELIC=ご遺骨)・ストゥーパー


涅槃に入られたお釈迦様は、荼毘に付され舎利は下記の八国に分けられ、さらにアショカ王により7か所のストゥーパ(龍王が保護したラーマガーマのストゥーパを除く)が発掘され、取り出された舎利が84,000箇所に分けたと伝えられます。


 1. クシナガラのマルラ族
 2. マガダ国のアジャンタシャトル王
 3. バイシャリのリッチャビ族
 4. カピラ城のシャカ族
 5. アラカッパのプリ族
 6. ラーマガーマのコーリヤ族※
 7. ヴェータデーバのバラモン
 8. バーヴァーのマルラ族


その一部を持ち帰ったリッチャビ族は、バイシャリ遺跡群から約3キロ離れた場所にあるリリック・ストーパーに舎利を埋葬しました。




直径12メートルのストゥーパーの基壇の部分のみが、かろうじて残ります。1957年に行われた発掘調査で、石製舎利容器、小さなほら貝、ガラス玉2個、銅貨1枚などが検出されました。舎利容器にはわずかに人骨が納めらており、アショカ王による発掘の際に残されたものと考えられます。容器と仏舎利は現在、パトナ博物館に収蔵されています。貴重な遺跡であるにもかかわらず、発掘後は雨ざらしの状態で長い間放置されていましたが、今はトタンの屋根がつけられています。



池をはさんだ正面に白色の日本山妙法寺の仏塔があります。


<<< バイシャリを訪れるツアーはこちら >>>


 


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猿王奉蜜の話をテーマにした彫刻は、ガンダーラにもみられますが、サンチー第1塔の北のトラーナ(門塔)の作品が特に秀作です。アグラの南約500キロに位置するサンチーの遺跡では、時間的に別々の場面を、1つのパネルの中に表現する彫刻が多くみられます。「鉢に入れた蜜をお釈迦様に捧げている場面」と、「それをお釈迦様に受け取ってもらい喜ぶ猿王」が、1枚のパネルの中に表現されています。その喜び方が、現在の“ガッツポーズ”と全く同じなのには驚かされます。



この作品では、お釈迦様をパネル左上の台座の上の「菩提樹」として表現しています。仏像が考案される以前の彫刻では、お釈迦様は「菩提樹」・「法輪」・「仏足石」・「ストゥーパー」などで表現されています。これは『本質は、修行によって人それぞれ心の中で理解するもの』という古代インドの考え方があった事と、あまりに尊いお釈迦様を、偶像化する事への抵抗があったためでした。


<<< サンチーを訪れるツアーはこちら >>>


 


●バイシャリでのご宿泊


バイシャリ・レジデンシー(2011年オープン)



このホテルが建つ以前は、まともな宿泊施設がなく、バイシャリの観光はパトナからの日帰りやパトナ~クシナガラの移動の途中に行うかのどちらかでした。現在は、宿泊しての旅程を組む事も可能となり、少し離れた場所にあるケサリアも訪問しやすくなりました。



現在のバイシャリは、小さな農村です。


霊鷲山 晩年止住説法された地

2015年01月04日 10:30


冬の期間、お釈迦様は霊鷲山に多く留まられ、法華経をはじめ大無量寿経、般若経など説かれました。仏典に『釈尊は常に霊鷲山にあり』などとよく表現されています。お釈迦様が自身の涅槃(死)を直感されたのは、涅槃の3ヶ月前、ラジギール滞在中でした。


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香堂から見える岩の形が1羽の鷲の姿に見えるといわれるのが、名前の由来です。霊鷲山は、ラジギール盆地を取り囲む、ウダヤギリ・ソーナギリ・ヴァイバーラギリ・ヴィプラギリ・ラトナギリの5山のうちの、ラトナギリの中腹にあります。(「ギリ」は「山」を意味します。)



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中国の『五台山』は、ラジギールの地形に似ていたため、文殊菩薩の霊場に定められました。これが鎌倉時代・室町時代に日本に伝わり、臨済宗を中心とした「五山の制」へと発展しました。
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19世紀、カニンガムなどのイギリス人学者によって、仏跡地の場所が考古学的に次々と証明される中、霊鷲山の場所は長らく謎のままでした。これを解明したのが、西本願寺第二十二世 大谷光瑞法主が率いる調査隊(大谷探検隊)です。ジャングルの中にテントを張り、「大唐西域記」に玄奘三蔵が残した“朝日と山との位置関係”の一致をみて、ついに1903年、霊鷲山の位置を確定しました。



お釈迦様は香堂に留まられ、法華経・大無量寿経・観無量寿経・般若経などを説かれました。



香堂の下には、アーナンダ等弟子達が瞑想・修行したであろう洞窟が残ります。



マガダ国の王ビンビサーラは、王舎城から霊鷲山に通じる山道を歩き、お釈迦様の説法を聞きに来ました。私たち巡拝者も歩むこの山道は、ビンビサーラ・ロードとも呼ばれます。



登山道はそれほど急ではありませんが、石段を1時間弱歩きます。駕篭(有料)もあります。



 


●日蓮宗のお寺 「日本山妙法寺」


ラトナギリの稜線を山頂の方に進むと、白い大きな仏塔があります。1969年に藤井日達上人により建立されたお寺です。



 


<<< 霊鷲山を訪れるツアーはこちら >>>

ケサリア 最後の旅への出発地

2014年12月31日 15:00


お釈迦様は、涅槃の3ヶ月前、ラジギール滞在中に自身の涅槃(死)を直感されます。故郷のカピラ城を目指し、最後の遊行に出発されました。


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バイシャリの北西50キロ、クシナガラへ向かう道の途中に、ケサリアの遺跡はあります。周囲に何もない湿地帯に建つ、遠目には丘のように見えるストゥーパは未だ調査中です。正式な報告書も作成されていないため、詳細は不明ですが、紀元後3世紀~8世紀のいずれかの時期に建立されたと推測されています。その存在は古くから知られていましたが、1998年にインド政府考古局が一部の発掘調査を行ったことで関心を集め、その規模の大きさから各方面より注目されることとなりました。



創建時には直径122m・高さ45mあったと推定され、8世紀造営のインドネシアのボロブドールのストゥーパー(基壇の1辺が115m・高さ42m)と大きさで比べると、わずかに上回りますが、現在は、1934年の地震により大きく崩壊し、高さは32mとなっています。階段状に6層のテラスがある形状で、基壇より2層目から4層目にはテラコッタ仏像を納める仏龕(ぶつがん・仏像を安置する空間)を配する、独特の構造をしています。大型ストゥーパーの側面に仏龕がある例は、他にほとんどありません。



仏龕は規則的な幾何学模様を呈し、曼荼羅にも通じているように見て取れることから、インドで仏教が密教化していく時代、すなわちパーラ王朝の時代(8世紀)に、このケサリア・ストゥーパーが現在の外観となったのはないかと想像されます。


 


※パッケージツアーの基本プランにはケサリアの見学は含みませんが、ラジギールやバイシャリを訪れるコースに追加で組み込むことも可能です。(延泊が必要な場合もあります。)


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チュンダの村 最後の食事

2014年12月31日 10:30

いよいよ、涅槃を直感されたお釈迦様は、ラジギール(王舎城)を後にして、最後の旅に出発されます。ナーランダ・パータリプトラ(パトナ)を経由しガンジス河を渡り、リッチャビ族が治めるバイシャリに到達した時、遊女アムラパーリと出会い、彼女から食事のもてなしをうけます。直後にリッチャビ族の貴族達もお釈迦様への食事の接待を申し出ましたが、先に申し出があったアムラパーリのもてなしを受け、『供物の価値は施主の身分・地位に関係がない』と説かれました。この食事の後、お釈迦様は激しい苦しみに襲われ、3か月後に涅槃に入られる事を、悪魔ラーマと約束しました。その後も北への旅は続けられ、クシナガラ郊外のパーパという村に到着し、一行はマンゴの木の下で休息をとりました。その時、この木の持ち主チュンダという鍛冶屋が、お釈迦様一行に料理(“キノコ”または“豚肉”の2つの説があります)の供養を申し出ました。この後、お釈迦様は再び激しい苦しみに見舞われました。お釈迦様はその時、『涅槃はチュンダの責任ではない』、『成道の前の供養(スジャータによるミルク粥の供養)と涅槃の前の供養には特別な意味がある』と説かれました。


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●チュンダの村



バイシャリからクシナガラを目指したお釈迦様一行が、鍛冶屋のチュンダから供養を受けた場所は、チャティヤオン村で、クシナガラから国道28号線をバイシャリ方向に21キロ進んだ場所にあります。現在はアショカ王の時代に建立されたというストゥーパが残り、ストゥーパ跡丘陵上にヒンドゥー教祠堂があります。