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アショカツアーズ流インドの歩き方

八大聖地の記事一覧

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【空港・仏跡聖地レポート】3年ぶりにインド添乗にいってきました。

2023年04月10日 11:46

ナマスカール。

先月(2023年3月)弊社スタッフがインドへ行った添乗レポートをアップさせていただきますので、よろしければインド旅行のイメトレにお使いください。

今回お客様に同行させていただいたのは、インドの中でも仏教聖地クシナガラ、ブダガヤ、ベナレス(サルナート)。インドの田舎町や混沌としている街どちらも巡っていますので、空港のようすと合わせてご覧ください。

 

【添乗レポート】

ツアー催行が決まった時は『ようやく行ける様になった』という気持ちが一番にありました。本当に長い長いお預け期間でした。

コロナ禍の3年間、今後インドへ行く日が来るのかと本気で思った事もありましたが、まだインドとのご縁があってご案内することが出来ました。

 

行く前は不安半分・期待半分の複雑な心境で少し緊張しながらのフライトでしたが、コロナ前と変わらないインドが待っていました。
結論から言いますと拍子抜けするくらいコロナ前と変わらない状態で旅行する事が出来ました。

 

行き先は仏教遺跡が中心で訪問地の参考になるか分かりませんが、今回の訪問地に関する情報をまとめてみましたので、一度ご覧ください。
まだまだインド(海外)の渡航に不安がある方も多いかと思いますが、インドに関しては不安はありませんので、安心してご検討・ご計画下さい!

 

 

●各空港の様子(日本・インドの出入国)

各空港の様子(日本・インドの出入国)

●デリーの様子

デリーの様子

●クシナガラの様子

クシナガラの様子

●ブダガヤの様子

ブダガヤの様子

●ベナレスの様子

ベナレスの様子

 

現地はすっかり通常運行のようですね。 さすがインドです。

㈱ビーエス観光 アショカツアーズ スタッフ

【お釈迦様涅槃の地、クシナガラに国際空港が開港しました】

2021年10月21日 11:48

2021年10月20日、お釈迦様涅槃の地クシナガラに国際空港ができ、無事に開港したとの情報が入ってきました!
  
この空港まだできたてホヤホヤですが、一般的な利用ができるようになると、組めるスケジュールのバリエーションも増え、効率よく仏教聖地巡礼をしていただけるようになるのではないかと思います。
 
昨日のヒンダスタン・タイムズに、この後まずは週4便のデリー往復を就航させる他、ムンバイやコルカタ空港の定期便も予定されているとの記事が掲載されていました。その後にでもベナレスやパトナ空港と繋がってくれるといいな、、、なんて淡い期待を抱いています♪
 
下記、いつも弊社がお世話になっている現地手配会社INPACさんのHP日本語記事です。
もう少し詳しく載っているのでよろしければご覧ください♪
  
10月15日よりチャーター便に対して、そして11月15日から一般の皆様に対してのe観光ビザも発給復活予定ですので、いよいよインドは動き出しました!! あとは日本への帰国後の制限がこの後どうなるかです。
withコロナ時代の海外旅行。数年は手探り状態になると思いますが、一緒に記憶に残る旅を作っていきましょう!
 
涅槃堂 涅槃像

ルンビニ 降誕の地

2015年01月19日 09:59


お釈迦様は今からおよそ2,500年の昔、釈迦族の王子としてルンビニの地で降誕されました。ご誕生に際し、お釈迦様の母君マヤ夫人は天上界の満月から降下してきた6本の牙をもつ白象が、右脇腹から胎内に入る夢を見てご懐妊になられたと伝えられます。その後、マヤ夫人は当時のインドの習慣により、出産のため召使いたちと里帰りの途中、休憩のためルンビニに立ち寄ります。そして沐浴をされ、無憂樹に右手を触れられたとき、お釈迦様が誕生されました。(マヤ夫人は、お釈迦様の誕生1週間後にこの世を去られ、お釈迦様はマヤ夫人の妹であるマハプラジャーパティーにより養育されました。)


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お釈迦様生誕の地ルンビニは、1980年頃まで、訪れる人も少なく荒廃していましたが、その後遺跡公園として整備が行われ、1997年世界遺産に登録されました。


 


●お釈迦様誕生の地に建てられた マヤ堂


遺跡を覆う「マヤ堂」と呼ばれる建物は、時代と共に位置や形を変えてきましたが、ユネスコによる『ルンビニ中心部の遺構を覆うシェルター型の建造物を建築すべき』という進言によって、今日の姿となりました。


 


建物内部には、調査により検出された建造物の遺構がそのままの姿で残ります。古い時代の構造物の上に新しい時代のものが作られる過程が何度か繰りかえされたため、複数の時代の遺構が重なって残ります。



特に注目すべきは、1995年に検出され『お釈迦様がこの地で降誕された』ことを示すと言われるマーカーストーン(石碑)。堂のほぼ中心、紀元前3世紀(アショカ王の時代)と想定される地層で発掘されたことから、まさにここが「お釈迦様がお産まれになった地」であることを示す証拠とされています。



石碑の上には、4世紀グプタ王朝期に刻まれた石製のレリーフ「お釈迦様降誕像」が安置されています。イスラム教徒による破壊で表面の細かな彫刻表現は失われましたが、「マヤ夫人が無憂樹の枝に右手を触れた時に右脇腹より誕生されたお釈迦様を、梵天(ブラフマー神)が絹布を手にして抱き上げようとしている」場面です。



 


●マヤ堂の南にある池 「沐浴の池」


「マヤ夫人がお釈迦様を産む前に沐浴をされた」あるいは「お釈迦様が産湯に浸かった」といわれますが、実際には1933~39年に考古学的検証をともなわずに掘られたものです。かといって単なる創作というわけでもなく、この池に関する記述は様々な仏教文献に見られます。



5世紀この地を訪れた法顕は「佛国記」に『王妃が北方からお越しになり、水浴びをされ、身体を清められたのはここである』と残しており、三蔵は「大唐西域記」に『釈迦族の水浴び用桶である。その水は鏡のように光輝き、清らかである。水面は色とりどりの花で覆われている』と記しています。


 


●奉献ストゥーパー群


「ストゥーパー」とは、お釈迦様の舎利(遺骨)を納めるための施設で、(人の姿をした)仏像が考案される以前は“お釈迦様の象徴”として礼拝の対象とされました。



「奉献ストゥーパー」とは、在家の信者などが“仏教的徳を積む”ために建立したストゥーパーで、多くの仏教遺跡でみられます。


 


●アショカ王が仏教普及のため建立した アショカ王柱


お釈迦様の入滅からおよそ200年後の紀元前274年頃、マウリヤ王朝3代目アショカ王が即位しました。この時代、王朝はベンガル湾に面したカリンガー国を除いた北インド一帯を支配下に置いており、王はカリンガー国を征服するべく長期に渡る戦を行いました。ついには征服できましたが、双方に多くの死者・負傷者を出し、その悲惨な様子を見たアショカ王は、“武力による政治”から“仏教の理念に基づく法による政治”を目指すようになります。


そこで仏教の普及を図るため建立されたのが、「アショカ王柱」でした。継ぎ目のない1本の石柱で造られ、上部には獅子・牛・象など、仏教に関わりのある動物の彫刻が載せられました。下は、インドの国章にもなっている『獅子柱頭』で、サールナート考古学博物館に収蔵されています。(ルンビニにはありません) 



マウリヤ国領土に30本程建てられたと推定され、現在、断片のみのものを含めて15本が残ります。マヤ堂の西に残る石柱もその中の1つで、1893年に発見されました。




『神々に愛せられた温容ある王(アショカ王)は、即位20年後に、親しくこの地に巡幸参拝された。ここは仏陀釈迦牟尼の生誕地であるが故に、石で馬像を作り石柱を建立させた。神がここで誕生されたので、ルンビニ村は租税を免じ、生産物の八分の一のみ納めるものとされた』


石柱に残されたブラフミー語の碑文がこのように読解され、ルンビニが“お釈迦様の生誕の地”であることの裏付けとなりました。なお玄奘三蔵の大唐西域記に「柱頭部に馬の石像がある」と記録されていますが、現在は発見されていません。


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ルンビニでのご宿泊


●ルンビニ法華ホテル(1991年開業)


日本からの仏跡巡拝者が快適な旅行ができるよう、日本の「法華クラブ」により建てられ、現在は、他の仏教聖地(ブダガヤ・クシナガラ・ラジギール・サンカシャ)にもホテルを展開する「インパック社(インド)」が運営しています。



フレンドリーで気の利くスタッフたち。



中庭を中心に平屋建ての客室が並びます。



雄大な自然環境の中にあり、多くの野鳥を観察できます。餌付けしているクジャクが中庭にやってくることもあります。



全客室数27と、規模は小さいですが、和室(20部屋)には畳が敷かれ、お布団でお休みいただけます。



和食・ネパール料理・インド料理のレストラン。



僻地にもかかわらず日本米やお醤油などの材料調達をがんばっており、シェフの腕前もなかなかです。



日本からのお客様向けに、大浴場もあり、旅の疲れを癒してのんびり過ごせるホテルです。


 


<<< ルンビニを訪れるツアーはこちら >>>

ブダガヤ(ブッダガヤの大菩提寺【世界遺産】) 成道の地

2015年01月15日 10:30


お釈迦様は前正覚山での5年に及ぶ苦行の末、古代インド宗教・バラモン教修行者達が行う、「“苦行のための苦行”は無意味だ」と悟ります。苦行を捨て、ついには山を降り、村でスジャータという娘から乳粥の供養を受けます。そして尼蓮禅河を渡り、菩提樹の木の下で覚りのための瞑想に入り、7日後成道の境地に達せられました。 35歳の時でした。


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2002年に世界遺産登録された、人類にとって記念すべき聖地“ブダガヤ”には高さ52メートルの大菩提寺が聳え、偉大な聖地である事を直感させます。寺院裏には、真の成道の座“金剛宝座”と菩提樹の大木が、寺院横には『悟りの境地を人々に伝え広げるか否かで迷われ、歩まれた足跡に蓮華の花が開いた』という説話を表現した、蓮華レリーフの19の経行石が残ります。


 


●古来より多くの人々が参拝した 大菩提寺(大塔)



紀元前3世紀のマウリヤ朝アショカ王も度々訪問し、その様子がサンチーの第1ストゥーパーの彫刻にも残されています。その彫刻に残る塔の形は、現在の姿↑とだいぶ異なり、むしろ「クシナガラの大涅槃寺」↓に近い形をしています。


<=クシナガラの涅槃堂


玄奘三蔵がAD635年に訪問した際の記録には、『正方形の基底の上にピラミッド型に聳え立つ建物あり、これはグプタ王朝1世サムドラ・グプタ(AD335~385)により建立された』とあり、この時の姿は今とほぼ同じであったと考えられます。



鳥居のような石製の門をくぐってお寺へ進みますが、寺院としては珍しく、階段を「下りて」参拝します。これには歴史的な理由があります。


仏教が衰退した13世紀、アフガニスタンのバクティヤール・ハルジーが率いるイスラム軍団が北インドに攻め入ります。イスラム教では偶像崇拝が禁じられ、偶像の存在自体が罪であると考えられたため、仏教・ヒンドゥー教・ジャイナ教の寺院・仏像・神像の破壊が行われました。そこでブダガヤに僅かに残った仏教徒は、大菩提寺を破壊から守るため、土で覆って小高い丘に偽装しました。


その後約600年間、埋もれたままとなります。そして19世紀、イギリス人考古学者カニンガムの調査により埋められていた寺院が発掘され、今日の姿を取り戻したのです。本堂が建っている地盤が周りの土地のよりも低くなっていることが、史実を如実に物語っています。


 



本堂内部には、金色に塗られたお釈迦様の「降魔成道像」が安置されています。『お釈迦様が悟りを得た時、悪魔が退散し、触地印を示したお釈迦様の悟りが本物であると、地神が証明した』という説話により、人差し指を下に向けた「触地印」を示しています。9世紀のパーラ王朝時代、仏像が黒い石に彫られていた時期の作品で、本来は黒色ですが、仏滅2500年の際にビルマ人により金箔が貼られ、今日の姿となりました。


 




寺院横には、『悟りの境地を人々に伝え広げるか否かで迷われ、歩まれた足跡に蓮華の花が開いた』という説話を表現した、蓮華レリーフの19の経行石が残ります。そして、寺院の壁にはお釈迦様の座像が彫刻されています。



 


●真の成道の座 金剛宝座と菩提樹の聖木



本堂裏側に、「まさにこの場所でお釈迦様が悟りを得た」事を示す金剛宝座と、菩提樹の聖木があります。金剛宝座は、紀元前3世紀のマウリヤ王朝期・アショカ王の時代の作品だとされ、135㎝×128㎝、厚さ15㎝の石盤の表面には幾何学模様が彫られています。現在は金剛宝座の周りには欄楯がめぐらされ、立ち入りができないうえ、幾重にも布がかけられているため、その姿を確認する事はできません。




この金剛宝座に覆いかぶさるように鎮座する菩提樹の大木は、お釈迦様の悟り時の菩提樹の「孫」にあたる、大変に仏縁の深い聖木です。説話によると、アショカ王の息子マヒンドラが、仏教布教のためスリランカに渡った際、妹のサンガ・ミッタがお釈迦様お悟りの菩提樹の枝を持って同行し、アヌダラプーラの地に植樹しました。これがしっかり根付き、今日まで枯れる事なく「スリマハ菩提樹」と呼ばれるスリランカの国の宝となっています。この「スリハマ菩提樹」の分け木が、このブダガヤの菩提樹の聖木です。


 


●アショカ王が仏教普及のため建立した「アショカ王柱」



マウリヤ国領土に30本程度が建立され、現在15本が現存する「アショカ王柱」の1つをブダガヤでも見ることができます。残念ながら柱頭部の彫刻は現時点では発見されていません。


 


●お釈迦様を暴風雨から守った ムチリンダ龍王の池



王柱が安置される場所の近くに、ムチリンダ龍王の像が奉られる池があります。


お釈迦様の成道後5週目に、ブダガヤを暴風雨が襲った際、ムチリンダ龍王はお釈迦様の体に7回巻きつき、7つの頭で天蓋をつくり、風雨と寒さから守りました。その後ムチリンダは人間になり、お釈迦様に帰依しました。


ムチリンダ龍王は日本ではあまり知られませんが、ガンダーラ(パキスタン)にも作品があり、アンコールワットやボロブドール等東南アジアの遺跡でも、多くの像が発見されています。


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ブダガヤでのご宿泊


●ロイヤルレジデンシーホテル





2002年開業、ブダガヤで最も設備が整ったホテルです。全客室数64部屋はブダガヤ最大規模で、館内には、エア・インディア航空やタイ航空の事務所、仏跡地地に5つホテルを運営するインパック社の事務所がテナントとして入ります。



レストランでは、中華・洋食・インド食のメニューが揃い、館内の無農薬・有機農園で栽培された、新鮮で安全な野菜が使われています。


 


●ホテル・スジャータ






大菩提寺の近く、日本寺のすぐ近くに位置する比較的設備の整うホテルです。ブダガヤでは老舗のホテルで団体旅行・個人旅行のお客様の対応にも慣れています。館内には日本式の大浴場があります。


 


<<< ブダガヤを訪れるツアーはこちら >>>

サルナート 初転法輪の地

2015年01月13日 10:14


悟りをひらかれたお釈迦様は、その偉大なる境地を『人々に広めるか』、『広めたとして人々に理解されるか』と迷われます。その問題解決のため1週間の断食後、ついに説法伝導を決意されました。『果して、誰に最初に布教するか・・・』、最初に思いついたのが、かつて王舎城(ラジギール)で出会った、禅の師匠アーラダ仙とルドラカ仙でしたが、この2人は既にこの世の人ではありませんでした。次に、有縁の修行者達(五比丘)を想起されました。


お悟り前の長い間、苦行を共にした五比丘は、“苦行のための苦行には意味がない”と山を下りたお釈迦様の姿に失望し、カーシ国(現在のベナレス)のサルナートに離れてしまっていました。現れたお釈迦様を、五比丘は無視しようとしましたが、そのあまりに輝くお姿に圧倒され、お釈迦様の最初の説法(初転法輪)を授かりました。


ここに人類史上、初めて、仏教の教えが説かれた事になります。



崇高なお釈迦様の説法に鹿までもが耳を傾けた事から、この地は「鹿野苑」ともいわれます。


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仏教遺跡は、インドで仏教が衰退した後、人々に忘れ去られ、荒廃の一途をたどりました。イギリスの植民地支配の時代、イギリス人考古学者アレキサンダー・カニンガムはこうした仏教遺跡を発掘し、古代インドの仏教を次々と解明しました。サルナート遺跡群も彼により発掘された一つです。


 


●紀元前3世紀にアショカ王が造営 ダルマラージカ・ストゥーパ




マウリヤ王朝アショカ王は、お釈迦様の入滅後8つに分けられ埋葬された舎利のうち7か所を発掘し、8万4000箇所に再埋葬したと伝えられ、そのうちの1つがこのストゥーパです。基礎部分しか残っていませんが、これは18世紀にベナレスの王ジャガット・シンが、市場の建設資材として、石材と煉瓦をこのストゥーパから調達してしまったためです。また、その時発見された舎利容器に入れられた人骨は、ヒンドゥー教の習慣によりガンジス河に流されてしまったといわれます。


 


●アショカ王が仏教普及のため建立した「アショカ王柱」




ダルマラージカ・ストゥーパから少し進んだところに、3つに折れたアショカ王柱が残ります。ブラフミー文字で『教団の中で戒律を守らなかった比丘または尼比丘は、教団から追放し還俗させる。』など出家者の戒律が刻まれています。そしてこの柱頭部には、「柱頭部4頭獅子像」と呼ばれる、インドを象徴する彫刻が載せられていました。



この作品はインドの国宝の中でも最も重要なもので、インド政府の国章ともなっています。現在、隣接する考古学博物館(金曜休館)で展示されており、間近でご覧いただけます。


 


●古代の仏教寺院 「ムラガンダクーティ寺院(根本香堂)」



グプタ王朝期(4世紀)、この地で初転法輪が行われた事を記念し、王柱近くに寺院が建立されました。今では建造物は崩れ落ち、その基礎の部分のみが残りますが、寺院の基礎部分は一辺18.29mの四角形を呈し、その分厚い壁の構造から60メートル相当の高さを有していたと考えられます。事実、玄奘三蔵の「大唐西域記」に高さ百尺余り(今の200尺=60メートル)の精舎が空高く聳えていた事が記録されています。


 


●遺跡エリアの一番奥 「ダメーク・ストゥーパ」



建立されたのは、ムラガンダクーティ寺院と同じグプタ王朝期です。(この時代、ブダガヤの大菩提寺などとともに、高層の寺院や仏塔を建築するのが流行しました。)幾度かの拡張を受けており、現在は高さ43.6m 底辺直径36.6mと、この遺跡最大の建造物となっています。



下部には、一番新しい時代の華麗な蓮華唐草文様と、幾何学模様の石製装飾パネルが残りますが、上部は崩壊しており、古い時代のストゥーパの表面が露出しています。


 


●お釈迦様とどう向き合うかを五比丘が相談した 「パンチャヤタン」



ムラガンダクーティ寺院とダメーク・ストゥーパの間、コンクリート屋根のある遺構は、初転法輪のためブダガヤからやってきたお釈迦様とどう向き合うか、五比丘が相談したところだといわれています。現地の言葉のパンチ(5人)+ヤタン(会議)から、「パンチャヤタン」と呼ばれます。この遺構の形は、卍の字形のルーツになったとの説もあります。



 


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