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アショカツアーズ流インドの歩き方

インド・ネパール観光名所の記事一覧

クシナガラ 涅槃の地

2014年12月30日 10:00


鍛冶屋チュンダに食事の供養を受けたところ、お釈迦様は突然激しい腹痛に見舞われます。苦痛の中、一刻も早くクシナガラに到着する事を望み、残り20キロの道を急ぎました。ついに到着されると、弟子アーナンダにこうお伝えになりました。『2本の沙羅の樹の間に、頭を北にして床を敷いてほしい。私は疲れた。横になりたい』アーナンダは直ちに床を作りお釈迦様を休ませました。お釈迦様は弟子達を悟し、静かに別れを告げられ、そして大涅槃へと入られました。80歳の時でした。



クシナガラから北の方向に故郷ルンビニがあり、「頭を北にして」には「父・母に足を向ける事はできない」との意味が込められていました。これが「北枕」の習慣の始まりだといわれます。


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 ●巨大な涅槃像を安置する 大涅槃寺



お釈迦様涅槃の地クシナガラには、白亜の殿堂大涅槃寺が残ります。堂内には、全長6.1メートルの涅槃像が安置されています。5世紀グプタ王朝期の作品で、19世紀にアレキサンダー・カニンガムにより、近くのヒラニヤヴァティー河床から発掘されました。グプタ期の仏像は赤砂岩に刻まれており、この涅槃像も、元は赤色を呈していましたが、仏滅2500年の大祭の時、ビルマ人仏教徒により金箔が施され、現在の色となりました。



枕の下の部分には、謝罪するチュンダの姿が彫刻されています。



中央には、最後の弟子スバトラの姿。



足元には、悲しみに溢れるアーナンダが刻まれています。



 


●僧院跡


大涅槃寺の周囲には、僧院跡の遺構が残ります。




 


●沙羅双樹



大涅槃寺正面には、お釈迦様の時代のものではありませんが、沙羅の大木が繁ります。『お釈迦様の涅槃の時、沙羅の樹に時ならぬ花が咲き、花弁がお釈迦様の上に舞った』と伝えられます。沙羅の花は例年3月中旬に咲くため、北伝仏教の大涅槃の日(2月15日)からすると、1か月の早咲きということになります。なお「平家物語」の『祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす』との一節から、「沙羅双樹」という種類の木があると誤解されますが、正しくは「2本の沙羅の木」を意味します。


 


●最後の説法の場所


お釈迦様は最後に次のように述べられ、息をひきとられました。『一切のものごとは滅びる。限りある時間を大切にして、修行に励め。法をよりどころにせよ』


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大涅槃寺入口の南約100メートルのところに、お釈迦様が最後の説法を行われた場所があります。小さな精舎の中には11世紀パーラ王朝時代の降魔成道像が安置されています。



 


●クシナガラでのご宿泊


ロイヤルレジデンシーホテル(2000年開業)



大涅槃寺や荼毘塚・最後の説法の地まで徒歩圏の、閑静な聖地の中に立地。5エーカーの敷地を有し、白を基調にしたエレガントな2階建て建造物に、45部屋の客室があります。



レストランでのお食事は、中華・洋食・インド食のメニューが提供され、名物の炊き込み鍋は野菜の旨味が利いたスープで人気メニューとなっています。



 


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ランバル・ストゥーパ(荼毘塚) 荼毘に付された地

2014年12月29日 10:00


お釈迦様入滅後、クシナガラを治めるマルラ国では7日間礼拝が行われ、人々は花や供物を持ってやってきました。やがて、お釈迦様の遺体を荼毘に付そうとしますが、不思議な事に薪に火をつける事ができません。人々は、お釈迦様の弟子カーシャパが、そこに居ないことに気づきます。奇跡のお告げにより、お釈迦様涅槃事を知ったカーシャパが駆けつけ、到着と同時に、薪に火がつきました。


かくして火葬は無事に終わり、お釈迦様と縁のあった諸国は残った舎利の分骨を求めます。しかしクシナガラのマルラ族は、城内の精舎に納めてしまい、応じようとせず、怒った諸国は、戦争を起こしかけます。そこで、ドローナというバラモンが『お釈迦様の非暴力の教えに基づき、8国で平等に分配するよう』と仲裁を行い、舎利は8国に持ち帰られることになりました。


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お釈迦様火葬の場所に、ドーム型の塚(ストゥーパ)が建てられています。周りは緑豊かな公園に整備され、ゆっくりと参拝できます。日本はもとよりスリランカや中国、韓国の仏教徒の方々が、お線香をあげる姿がみられます。


 


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-- カーシャパとお釈迦様 --火を崇拝する有力なバラモンであったカーシャパは、大勢の弟子を従え、お釈迦様とは常に一線を画していました。ある時お釈迦様が、神通力で大雨を降らせ、氾濫した尼蓮禅河に入り横切ろうとします。その姿を見たカーシャパの弟子は、お釈迦様が溺れたと思います。報告を受けたカーシャパが船を出して確かめにいくと、お釈迦様は濡れる事なく、河の底の土を踏みながら河を横切っていました。やがてカーシャパもお釈迦様の弟子となりました。


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この説話は、サンチー第1ストゥーパの東のトラーナ(門塔)に、彫刻として残されています。



彫刻中央に「カーシャパと漕ぎ手2人が乗った船」、その下に「河面を表す波状文」、さらに下に“お釈迦様が横切られた”ことを示す「平らな石(経行石ヒンキンセキ)」が表現されています。一番下には、降参して合掌するカーシャパの姿があります。まわりの6本の菩提樹は、「水に入る前のお釈迦様」と「河を渡り終えたお釈迦様」を示し、「水鳥・ワニの姿」が躍動的に彫られています。


 


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サーガルハワー 釈迦族滅亡の地

2014年12月28日 15:00

お釈迦様が幼少期を過ごされたカピラ城の主「釈迦族」は、コーサラ国(祇園精舎の地)により滅ぼされます。それは、コーサラ国のプラセナジト王が、『釈迦族から妃を迎えたい』と要請したことに起因します。気位の高い釈迦族は、容姿端麗だが家柄の身分が低い娘を偽って献上し、妃となったその女性は、瑠璃王子を出産します。成長した王子がカピラ城を訪れた際、釈迦族の人々が妃の出生の卑しさを嘲笑するのを耳にします。事実を知って大変憤慨した瑠璃王子は、王位につくと2回にわたり大軍を送り釈迦族を滅ぼそうとしました。途中でお釈迦様と出会い諭されますが、3回目の侵攻で徹底攻撃をしかけ、ついに滅亡させてしまいます。釈迦族の人々はお釈迦様の不殺生の教えを守り、決して応戦をすることはありませんでした。釈迦族の滅亡後、コーサラ国では『7日後に瑠璃王は焼死する』との噂が国中に流れます。恐れた王はラプチ河に船を浮かべ避難をしましたが、結局、船火事を起こし死亡してしまいました。


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このように記された“釈迦族滅亡”の地が、ティラウラコットの北北東3.5㎞に位置するサーガルハワーです。“サーガル”とは現地の言葉で「湖」を意味します。今日では、『戦の時、血で水が真っ赤に染まった』と伝えられる湖のみが残ります。



※サガールハワーへの道は整備されていないため、道中の車内はかなり揺れます。また道が大きく損壊していたり、雨期には冠水したりして、たどり着けない場合もあります。

ニガリーハワー 前世の過去仏の誕生地

2014年12月28日 10:00


古代の仏教では『お釈迦様が悟りを開いたのは、前世である「過去仏」の功徳が累積した結果』と考え、お釈迦様のみでなく、過去仏も礼拝の対象として重要視されました。これは仏教の根本理論の一つである「輪廻転生」の考え方で、『前世の功徳が大きさにより、来世が決定づけられる』という思想によります。


「釈迦の前世の過去仏」とは、以下の七仏です。(「七仏」にはお釈迦様も含まれるため、前世は「六仏」です。)


① 毘婆尸佛(ビバシブツ)
② 尸棄佛(シキブツ)
③ 毘舎浮佛(ビシャブツ)
④ 倶留孫佛(クルソンブツ)
⑤ 倶那含牟尼佛(クナゴンムニブツ)
⑥ 迦葉佛(カショウブツ)
⑦ 釈迦牟尼仏(シャカミニブツ)


ティラウラコットの北東5.5㎞に位置するニガリーハワーは、第5仏「倶那含牟尼佛」生誕の地とされ、アショカ王柱が建てられました。現存する2本の内1本の碑文には、『ピヤダシ王(=アショカ王)は戴冠14年を記念して、倶那含牟尼佛のストゥーパーを拡大し、戴冠20年を記念に敬意を払い石柱を建立した』と刻まれています。なお、横たわる石柱に残るチベット文字と孔雀の彫刻は、後世に刻まれたものです。


※ニガリーハワーへの道は整備がされておらず、道路の損壊や雨期の冠水により、たどり着けない場合があります。

第一結集の地 七葉窟、第三結集の地 クムラハール

2014年12月27日 10:00

お釈迦様が説法で説かれた御教えは、当初は弟子達が記憶していただけで、体系的に文書として記録される事はありませんでした。それではやがて「歪みが生じ」、「将来的に正しい教えが継承されない」可能性があったため、弟子やお釈迦様に関係した人達が集まり、お釈迦様の教えを整理・記録をする『結集(けつじゅう)』という作業が行われました。


第1回目はBC477年にラジギールにて、100年後(BC377年)にバイシャリにて第2回、さらに133年後(BC244年)にパータリプトラで第3回、と合計3回行われました。


 


●第一結集 七葉窟



アジャータシャトル(父であるマガダ王ビンビサーラの殺害という、最大の親不孝をはたらきながら、改心しお釈迦様に帰依するようになった)が主催者となり、結集が行われました。当時存命だったカーシャパやアーナンダなどの弟子達と、高僧500人が集まりました。その場所といわれるのがラジギール近郊、ヴァイバーラ山中腹にある奥行36メートルの自然にできた洞窟「七葉窟」です。



奥に行くほど狭くなっており、「500人がここで一同に会した」とはにわかに信じられないところではあります。


 


※七葉窟へは長い山道で、霊鷲山と比べてもかなりハードです。また往復に相当な時間を要するため、通常ツアーでは訪れません。


※パッケージツアーの基本プランには七葉窟の見学は含みませんが、ラジギールで延泊をされますと、訪問が可能です。


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 ●第三結集 クムラハール(鶏園寺)


バイシャリ第二結集が行われた133年後、マウリヤ王朝の都パータリプトラ(現在のパトナ市)のクムラハール(鶏園寺)で結集が行われました。


アショカ王の呼びかけで1000人の僧侶が招集され、経・律・論がまとめられました。


 


  -- マウリヤ王朝の勃興 --


BC330年、アレクサンドロス大王は、ペルセポリスに攻め込みアケメネス朝ペルシャを滅ぼし、さらに東進し、ガンダーラなどインダス河流域も支配下に組み入れました。


しかし形勢は逆転し、アレクサンドロス大王はバビロンで客死し、シリア王セレウコスがこれらの地を支配するようになりました。


ちょうどこの時期、インドではチャンドラ・グプタがマガダ国を滅ぼし、セレウコスと象500頭と引き換えに、ヒンドゥークシ山脈以南・西北インド一帯を入手し、マウリヤ王朝を興しました。


 


  -- アショカ大王の仏教帰依 --


マウリヤ王朝3代目アショカ大王は、祖父から引き継いだアフガニスタンから北インド全域の領土に加え、カリンガー国の領地だったベンガル湾岸地域も支配下に置こうと、カリンガーの戦を仕掛けます。


アショカ大王は、この戦いで戦争の悲惨さを実感し、仏教に帰依しダルマ(宇宙の法)による政治を行うよう、路線変更を行いました。


 


クムラハール遺跡からは、研磨された光沢のある80本以上の列柱をもつ“百柱の間”が発見されています。



その形状は、ペルセポリスのアパダーナ(謁見の間)と類似しており、アショカ大王はアケメネス朝ペルシャと活発な交流があった事を示しています。


 


※パッケージツアーの基本プランには、クムラハールの見学は含みませんが、パトナ経由でラジギールやバイシャリを訪れるコースに追加で組み込むことも可能です。(延泊が必要な場合もあります。)


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