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アショカツアーズ流インドの歩き方

インド・ネパール観光名所の記事一覧

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第一結集の地 七葉窟、第三結集の地 クムラハール

2014年12月27日 10:00

お釈迦様が説法で説かれた御教えは、当初は弟子達が記憶していただけで、体系的に文書として記録される事はありませんでした。それではやがて「歪みが生じ」、「将来的に正しい教えが継承されない」可能性があったため、弟子やお釈迦様に関係した人達が集まり、お釈迦様の教えを整理・記録をする『結集(けつじゅう)』という作業が行われました。


第1回目はBC477年にラジギールにて、100年後(BC377年)にバイシャリにて第2回、さらに133年後(BC244年)にパータリプトラで第3回、と合計3回行われました。


 


●第一結集 七葉窟



アジャータシャトル(父であるマガダ王ビンビサーラの殺害という、最大の親不孝をはたらきながら、改心しお釈迦様に帰依するようになった)が主催者となり、結集が行われました。当時存命だったカーシャパやアーナンダなどの弟子達と、高僧500人が集まりました。その場所といわれるのがラジギール近郊、ヴァイバーラ山中腹にある奥行36メートルの自然にできた洞窟「七葉窟」です。



奥に行くほど狭くなっており、「500人がここで一同に会した」とはにわかに信じられないところではあります。


 


※七葉窟へは長い山道で、霊鷲山と比べてもかなりハードです。また往復に相当な時間を要するため、通常ツアーでは訪れません。


※パッケージツアーの基本プランには七葉窟の見学は含みませんが、ラジギールで延泊をされますと、訪問が可能です。


<<< ラジギールを訪れるツアーはこちら >>>


 


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 ●第三結集 クムラハール(鶏園寺)


バイシャリ第二結集が行われた133年後、マウリヤ王朝の都パータリプトラ(現在のパトナ市)のクムラハール(鶏園寺)で結集が行われました。


アショカ王の呼びかけで1000人の僧侶が招集され、経・律・論がまとめられました。


 


  -- マウリヤ王朝の勃興 --


BC330年、アレクサンドロス大王は、ペルセポリスに攻め込みアケメネス朝ペルシャを滅ぼし、さらに東進し、ガンダーラなどインダス河流域も支配下に組み入れました。


しかし形勢は逆転し、アレクサンドロス大王はバビロンで客死し、シリア王セレウコスがこれらの地を支配するようになりました。


ちょうどこの時期、インドではチャンドラ・グプタがマガダ国を滅ぼし、セレウコスと象500頭と引き換えに、ヒンドゥークシ山脈以南・西北インド一帯を入手し、マウリヤ王朝を興しました。


 


  -- アショカ大王の仏教帰依 --


マウリヤ王朝3代目アショカ大王は、祖父から引き継いだアフガニスタンから北インド全域の領土に加え、カリンガー国の領地だったベンガル湾岸地域も支配下に置こうと、カリンガーの戦を仕掛けます。


アショカ大王は、この戦いで戦争の悲惨さを実感し、仏教に帰依しダルマ(宇宙の法)による政治を行うよう、路線変更を行いました。


 


クムラハール遺跡からは、研磨された光沢のある80本以上の列柱をもつ“百柱の間”が発見されています。



その形状は、ペルセポリスのアパダーナ(謁見の間)と類似しており、アショカ大王はアケメネス朝ペルシャと活発な交流があった事を示しています。


 


※パッケージツアーの基本プランには、クムラハールの見学は含みませんが、パトナ経由でラジギールやバイシャリを訪れるコースに追加で組み込むことも可能です。(延泊が必要な場合もあります。)


<<< ラジギール・バイシャリを訪れるツアーはこちら >>>

ナーランダ大学【世界遺産】 玄奘三蔵の旅の目的地

2014年12月26日 13:32

追記:2016年7月、世界遺産に登録されました!



インドへの旅の先駆者といえば、「玄奘三蔵(三蔵法師)」。


唐(現在の中国)の僧であった玄奘は、今から1385年前(AD629年)、いくつもの峠や山脈を超え、あこがれの天竺(インド)に至ります。当時の唐では外国に行くことは法で禁じられていましたがたが、それを犯してまでもこの地を目指しました。飛行機も車もない時代、どれほど困難で危険を伴う冒険だったことでしょう。


17年もの間、中央アジアやインドの仏教ゆかりの地を巡礼した玄奘は、AD645年に経典や仏像を持って帰国し、旅の見聞録として翌年に著したのが「大唐西域記」。


そこに記された内容は、現在では貴重な歴史資料となり、仏教遺跡の発掘・研究に役立てられています。私達が今日、仏教遺跡を訪れることができるのも、“玄奘三蔵が旅の記録を残してくれたからこそ”であり、仏跡巡拝は「玄奘三蔵が歩いた道を辿る旅」ともいえるでしょう。


 その玄奘が「旅の最終目的地」としたのがナーランダ大学です。


 



--紀元前5世紀:基礎となる精舎の寄進--


500人の商人がアムラ長者からナーランダの土地を購入し、精舎を建設してお釈迦様に寄進しました。


--5世紀:総合大学へ--


精舎はいつしか仏教研究の場となり、グプタ王朝クマラ・グプタ1世が、本格的に総合大学へと発展させます。東方のヴィクラマシーラ大学とともに、「世界最古の大学」のひとつがここに創られました。学部は仏教学、ヴェダー学、医学、冶金学、数学、音楽学など合計12あり、教授は2千人、1万人余りの学生が学んだといわれます。



--7世紀:玄奘三蔵が留学--


学長シーラバトラ(戒賢)は、ある時、天人からお告げを受ける夢をみました。『中国から1人の求道僧がやってくる。その求道僧にはきっちりと教えなくてはならない。』一方、国禁を犯して唐を出発した玄奘は、ナーランダ大学を目指しながら、途中あちこち立ち寄って旅をし、636年、留学を果たします。この話を玄奘にしたところ、夢を見たのは、玄奘が長安を出発したのと同じ年(629年)でした。玄奘は5年滞在し、最終的には副学長を務めます。


--12世紀末:歴史に幕--


その後数世紀にわたり、南アジアの最高学府の地位を保ち、様々な学問が行われましたが、12世紀末、侵攻してきたゴール王朝バクティヤール・ハルジーのイスラム部隊による焼き討ちにあい、1500年以上の歴史に幕を下ろします。大学の蔵書が燃え尽きるのに6か月を要した、とも伝えられています。


 


--21世紀:遺跡が発掘され、仏教徒の巡礼地に--


遺構は「礼拝所(チャイティア)」と「僧院(ビハーラ)」に大別されます。さらに「食糧庫」や「かまど」、「排水溝」などの設備跡も残ることから、当時の最先端の学問の場として、環境が整えられていたことがわかります。


25ヶ所ほど残る礼拝所(寺院、祠堂)のなかでも、ひときわ高くそびえ印象的なのが、「第3号寺院(下の写真)」です。



礼拝所には、仏像を安置する空間(仏龕/ぶつがん)が残っています。中に安置されていたであろう仏像は、イスラム勢力の破壊によりほとんど残っていません。




僧院(学生=修行僧が生活するところ)は、広い四角形の構造です。中心の広間を取り囲むようにして、四畳半程の小部屋が一辺あたり10戸ほど並びます。広間で講義を聴き、周りの小部屋で寝食を共にしながら生活を送っていた学生たちの様子が想像できます。



小部屋には石製のベッドがしつらえてあります。



講堂には井戸もあります。



数百年に渡る歴史の中、古い建物の上に重ねて新しい建物が作られてきました。このため遺構の下の部分ほど、より古い時代のレンガが残ります。(色やサイズで時代の違いを見分けられます。)



敷地は広大で、まだ発掘されていない遺跡が森の向こうまで広がっているといわれます。



※発掘調査により、深く掘り下げられている箇所も多くあり、遺跡内に大きな段差があります。 見学の際は足下にご注意ください。


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