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インド・ネパール観光名所の記事一覧
霊鷲山 晩年止住説法された地
2015年01月04日 10:30
冬の期間、お釈迦様は霊鷲山に多く留まられ、法華経をはじめ大無量寿経、般若経など説かれました。仏典に『釈尊は常に霊鷲山にあり』などとよく表現されています。お釈迦様が自身の涅槃(死)を直感されたのは、涅槃の3ヶ月前、ラジギール滞在中でした。
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香堂から見える岩の形が1羽の鷲の姿に見えるといわれるのが、名前の由来です。霊鷲山は、ラジギール盆地を取り囲む、ウダヤギリ・ソーナギリ・ヴァイバーラギリ・ヴィプラギリ・ラトナギリの5山のうちの、ラトナギリの中腹にあります。(「ギリ」は「山」を意味します。)
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中国の『五台山』は、ラジギールの地形に似ていたため、文殊菩薩の霊場に定められました。これが鎌倉時代・室町時代に日本に伝わり、臨済宗を中心とした「五山の制」へと発展しました。
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19世紀、カニンガムなどのイギリス人学者によって、仏跡地の場所が考古学的に次々と証明される中、霊鷲山の場所は長らく謎のままでした。これを解明したのが、西本願寺第二十二世 大谷光瑞法主が率いる調査隊(大谷探検隊)です。ジャングルの中にテントを張り、「大唐西域記」に玄奘三蔵が残した“朝日と山との位置関係”の一致をみて、ついに1903年、霊鷲山の位置を確定しました。
お釈迦様は香堂に留まられ、法華経・大無量寿経・観無量寿経・般若経などを説かれました。
香堂の下には、アーナンダ等弟子達が瞑想・修行したであろう洞窟が残ります。
マガダ国の王ビンビサーラは、王舎城から霊鷲山に通じる山道を歩き、お釈迦様の説法を聞きに来ました。私たち巡拝者も歩むこの山道は、ビンビサーラ・ロードとも呼ばれます。
登山道はそれほど急ではありませんが、石段を1時間弱歩きます。駕篭(有料)もあります。
●日蓮宗のお寺 「日本山妙法寺」
ラトナギリの稜線を山頂の方に進むと、白い大きな仏塔があります。1969年に藤井日達上人により建立されたお寺です。
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ケサリア 最後の旅への出発地
2014年12月31日 15:00
お釈迦様は、涅槃の3ヶ月前、ラジギール滞在中に自身の涅槃(死)を直感されます。故郷のカピラ城を目指し、最後の遊行に出発されました。
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バイシャリの北西50キロ、クシナガラへ向かう道の途中に、ケサリアの遺跡はあります。周囲に何もない湿地帯に建つ、遠目には丘のように見えるストゥーパは未だ調査中です。正式な報告書も作成されていないため、詳細は不明ですが、紀元後3世紀~8世紀のいずれかの時期に建立されたと推測されています。その存在は古くから知られていましたが、1998年にインド政府考古局が一部の発掘調査を行ったことで関心を集め、その規模の大きさから各方面より注目されることとなりました。
創建時には直径122m・高さ45mあったと推定され、8世紀造営のインドネシアのボロブドールのストゥーパー(基壇の1辺が115m・高さ42m)と大きさで比べると、わずかに上回りますが、現在は、1934年の地震により大きく崩壊し、高さは32mとなっています。階段状に6層のテラスがある形状で、基壇より2層目から4層目にはテラコッタ仏像を納める仏龕(ぶつがん・仏像を安置する空間)を配する、独特の構造をしています。大型ストゥーパーの側面に仏龕がある例は、他にほとんどありません。
仏龕は規則的な幾何学模様を呈し、曼荼羅にも通じているように見て取れることから、インドで仏教が密教化していく時代、すなわちパーラ王朝の時代(8世紀)に、このケサリア・ストゥーパーが現在の外観となったのはないかと想像されます。
※パッケージツアーの基本プランにはケサリアの見学は含みませんが、ラジギールやバイシャリを訪れるコースに追加で組み込むことも可能です。(延泊が必要な場合もあります。)
<<< ラジギール・バイシャリを訪れるツアーはこちら >>>
チュンダの村 最後の食事
2014年12月31日 10:30
いよいよ、涅槃を直感されたお釈迦様は、ラジギール(王舎城)を後にして、最後の旅に出発されます。ナーランダ・パータリプトラ(パトナ)を経由しガンジス河を渡り、リッチャビ族が治めるバイシャリに到達した時、遊女アムラパーリと出会い、彼女から食事のもてなしをうけます。直後にリッチャビ族の貴族達もお釈迦様への食事の接待を申し出ましたが、先に申し出があったアムラパーリのもてなしを受け、『供物の価値は施主の身分・地位に関係がない』と説かれました。この食事の後、お釈迦様は激しい苦しみに襲われ、3か月後に涅槃に入られる事を、悪魔ラーマと約束しました。その後も北への旅は続けられ、クシナガラ郊外のパーパという村に到着し、一行はマンゴの木の下で休息をとりました。その時、この木の持ち主チュンダという鍛冶屋が、お釈迦様一行に料理(“キノコ”または“豚肉”の2つの説があります)の供養を申し出ました。この後、お釈迦様は再び激しい苦しみに見舞われました。お釈迦様はその時、『涅槃はチュンダの責任ではない』、『成道の前の供養(スジャータによるミルク粥の供養)と涅槃の前の供養には特別な意味がある』と説かれました。
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●チュンダの村
バイシャリからクシナガラを目指したお釈迦様一行が、鍛冶屋のチュンダから供養を受けた場所は、チャティヤオン村で、クシナガラから国道28号線をバイシャリ方向に21キロ進んだ場所にあります。現在はアショカ王の時代に建立されたというストゥーパが残り、ストゥーパ跡丘陵上にヒンドゥー教祠堂があります。
クシナガラ 涅槃の地
2014年12月30日 10:00
鍛冶屋チュンダに食事の供養を受けたところ、お釈迦様は突然激しい腹痛に見舞われます。苦痛の中、一刻も早くクシナガラに到着する事を望み、残り20キロの道を急ぎました。ついに到着されると、弟子アーナンダにこうお伝えになりました。『2本の沙羅の樹の間に、頭を北にして床を敷いてほしい。私は疲れた。横になりたい』アーナンダは直ちに床を作りお釈迦様を休ませました。お釈迦様は弟子達を悟し、静かに別れを告げられ、そして大涅槃へと入られました。80歳の時でした。
クシナガラから北の方向に故郷ルンビニがあり、「頭を北にして」には「父・母に足を向ける事はできない」との意味が込められていました。これが「北枕」の習慣の始まりだといわれます。
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●巨大な涅槃像を安置する 大涅槃寺
お釈迦様涅槃の地クシナガラには、白亜の殿堂大涅槃寺が残ります。堂内には、全長6.1メートルの涅槃像が安置されています。5世紀グプタ王朝期の作品で、19世紀にアレキサンダー・カニンガムにより、近くのヒラニヤヴァティー河床から発掘されました。グプタ期の仏像は赤砂岩に刻まれており、この涅槃像も、元は赤色を呈していましたが、仏滅2500年の大祭の時、ビルマ人仏教徒により金箔が施され、現在の色となりました。
枕の下の部分には、謝罪するチュンダの姿が彫刻されています。
中央には、最後の弟子スバトラの姿。
足元には、悲しみに溢れるアーナンダが刻まれています。
●僧院跡
大涅槃寺の周囲には、僧院跡の遺構が残ります。
●沙羅双樹
大涅槃寺正面には、お釈迦様の時代のものではありませんが、沙羅の大木が繁ります。『お釈迦様の涅槃の時、沙羅の樹に時ならぬ花が咲き、花弁がお釈迦様の上に舞った』と伝えられます。沙羅の花は例年3月中旬に咲くため、北伝仏教の大涅槃の日(2月15日)からすると、1か月の早咲きということになります。なお「平家物語」の『祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす』との一節から、「沙羅双樹」という種類の木があると誤解されますが、正しくは「2本の沙羅の木」を意味します。
●最後の説法の場所
お釈迦様は最後に次のように述べられ、息をひきとられました。『一切のものごとは滅びる。限りある時間を大切にして、修行に励め。法をよりどころにせよ』
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大涅槃寺入口の南約100メートルのところに、お釈迦様が最後の説法を行われた場所があります。小さな精舎の中には11世紀パーラ王朝時代の降魔成道像が安置されています。
●クシナガラでのご宿泊
ロイヤルレジデンシーホテル(2000年開業)
大涅槃寺や荼毘塚・最後の説法の地まで徒歩圏の、閑静な聖地の中に立地。5エーカーの敷地を有し、白を基調にしたエレガントな2階建て建造物に、45部屋の客室があります。
レストランでのお食事は、中華・洋食・インド食のメニューが提供され、名物の炊き込み鍋は野菜の旨味が利いたスープで人気メニューとなっています。
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ランバル・ストゥーパ(荼毘塚) 荼毘に付された地
2014年12月29日 10:00
お釈迦様入滅後、クシナガラを治めるマルラ国では7日間礼拝が行われ、人々は花や供物を持ってやってきました。やがて、お釈迦様の遺体を荼毘に付そうとしますが、不思議な事に薪に火をつける事ができません。人々は、お釈迦様の弟子カーシャパが、そこに居ないことに気づきます。奇跡のお告げにより、お釈迦様涅槃事を知ったカーシャパが駆けつけ、到着と同時に、薪に火がつきました。
かくして火葬は無事に終わり、お釈迦様と縁のあった諸国は残った舎利の分骨を求めます。しかしクシナガラのマルラ族は、城内の精舎に納めてしまい、応じようとせず、怒った諸国は、戦争を起こしかけます。そこで、ドローナというバラモンが『お釈迦様の非暴力の教えに基づき、8国で平等に分配するよう』と仲裁を行い、舎利は8国に持ち帰られることになりました。
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お釈迦様火葬の場所に、ドーム型の塚(ストゥーパ)が建てられています。周りは緑豊かな公園に整備され、ゆっくりと参拝できます。日本はもとよりスリランカや中国、韓国の仏教徒の方々が、お線香をあげる姿がみられます。
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-- カーシャパとお釈迦様 --火を崇拝する有力なバラモンであったカーシャパは、大勢の弟子を従え、お釈迦様とは常に一線を画していました。ある時お釈迦様が、神通力で大雨を降らせ、氾濫した尼蓮禅河に入り横切ろうとします。その姿を見たカーシャパの弟子は、お釈迦様が溺れたと思います。報告を受けたカーシャパが船を出して確かめにいくと、お釈迦様は濡れる事なく、河の底の土を踏みながら河を横切っていました。やがてカーシャパもお釈迦様の弟子となりました。
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この説話は、サンチー第1ストゥーパの東のトラーナ(門塔)に、彫刻として残されています。
彫刻中央に「カーシャパと漕ぎ手2人が乗った船」、その下に「河面を表す波状文」、さらに下に“お釈迦様が横切られた”ことを示す「平らな石(経行石ヒンキンセキ)」が表現されています。一番下には、降参して合掌するカーシャパの姿があります。まわりの6本の菩提樹は、「水に入る前のお釈迦様」と「河を渡り終えたお釈迦様」を示し、「水鳥・ワニの姿」が躍動的に彫られています。
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