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アショカツアーズ流インドの歩き方

インド・ネパール観光名所の記事一覧

竹林精舎 仏教史上最古の寺院

2015年01月11日 10:00


あるときマガダ国のビンビサーラ王は、悟りを開く前のお釈迦様とラジギールで出会い、『皆あの者を見よ。美しく堂々としており、歩き方も申し分ない。いやしからぬ思想の持ち主にちがいない。』と言われ、使いを出し居場所を確認させました。使いから『大王様、あの修行者は山中の洞窟で虎のように座っておりました。』との報告を受け、その洞窟に出かけ『あなたは若くて前途がある。この国の軍事指揮官になれば、地位と財産をあげよう』と申し出ます。これに対しお釈迦様は、『私は釈迦族の王だ。どうしてそのような物が必要であろうか』と述べられ、修行のため立ち去られました。その時ビンビサーラ王は、『悟りをひらいた暁には、再び王舎城を訪れられること』、そして『お釈迦様に仕えること』、『釈迦様の説法を授かること』、そして『その内容を理解できること』、の4つを念願されました。


やがて月日が過ぎ、お悟りを得たお釈迦様は、王舎城を訪問しビンビサーラ王に法を説かれました。感激した王は、竹林園をお釈迦様に寄進し、そこにお釈迦様の教えに傾倒したカランダ長者が精舎を建立し、お釈迦様と弟子達が滞在するようになりました。


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これが「竹林精舎」、仏教史上最初の寺院ということになります。現在は、近年復元された小さな精舎とカランダの池が、整備された竹林の中にあります。



大唐西域記の中で、『お釈迦様がしばしば、そのほとりで法を説いた』と記された「カランダの池」は、植民地時代のカニンガムらによる発掘調査では確認できなかった竹林精舎の位置を示す大きな手がかりとなりました。



独立後、インド政府考古局の調査により、この池が発掘され、竹林精舎がこの地にあったことが確認されました。


 


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ビンビサーラ王の牢獄

2015年01月10日 10:00

ビンビサーラ王と妻イダイケ夫人の間には、なかなか王子が産まれませんでした。ある時ビンビサーラ王が王子出生について、バラモンに占ってもらったところ『山中に1人の仙人が修行をしており、この仙人が死んだ時、仙人の生前の功徳で、ビンビサーラ王に王子が産まれるだろう』といわれました。それから月日が経過しますが、この仙人が死亡する気配など全くありませんでした。そこでビンビサーラ王は刺客を送り、この仙人を殺害してしまいます。


その後間もなく占いのとおり、イダイケ夫人は身ごもりしました。そこでもう一度バラモンに占ってもらったところ『非業の死をとげた仙人はあなたの事を怨んでいる。その子は仙人の怨念で親を殺すような人物になるであろう』と断言され、堕胎を進めました。ビンビサーラ王はこの事をお釈迦様に相談したところ、生命の尊さを説かれ堕胎する事は禁じられました。こうして産まれたのが、アジャンタシャトル(アジャセ王)です。


 


アジャンタシャトルは王子として、何ひとつ不自由のない生活を送り成人します。ところがある時、お釈迦様と敵対するディーバダッタという人物に、その出生の秘密を聞かされます。そしてその事実に怒り、父であるビンビサーラ王を牢獄に幽閉し、食事を提供する事も禁じてしまいました。ところが、ビンビサーラ王は3週間経過しても死亡する事はありませんでした。これはイダイケ夫人が体にバターを塗り王と面会し王に提供していたためでした。この事に気づいたアジャンタシャトルは、イダイケ夫人の面会も禁じ、その7日後ビンビサーラ王はこの世を去りました。


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仏教に帰依し、竹林精舎の寄進など、お釈迦様の布教活動に多大な支援をしたビンビサーラ王ですが、その最後は、一人息子であるアジャンタシャトル(アジャセ王)により牢獄に監禁され、食物を与えられず、飢えて最後をむかえるという、残酷なものでした。この事態に嘆き悲しむイダイケ夫人に説かれたのが「観無量寿経」です。


 


●悲劇の舞台 ビンビサーラ王の牢獄




当時は7重の壁で囲まれた堅個な牢獄だったと伝えられていますが、今日は1辺およそ70メートルの石塁のみが残ります。霊鷲山の麓から竹林精舎に向かう途中に位置します。


 


●アジャセ王のストゥーパ


ビンビサーラ王を監禁し、死に至らしめた王子アジャンタシャトルも、後にお釈迦様に会い、仏教に帰依します。



竹林精舎の前の広場に、崩壊したストゥーパが残ります。お釈迦様入滅後、8国に舎利が分配された際、マガダ国が持ち帰った舎利を収めるために、アジャンタシャトルが建立した仏塔といわれます。



しかし、玄奘三蔵の大唐西域記には、『このストゥーパはアショカ王によって建立されたもので、近くにアショカ王柱があり、その柱頭部には象の彫刻が載せられていた』と記されています。残念ながら、このアショカ王柱は発見されていません。


 


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マンゴー園 名医ジーヴァカが寄進

2015年01月09日 10:00

マガダ国にジーヴァカ(祇婆)という人物がいました。売春婦の捨て子として産まれましたが、才能を見出されビンビサーラ王に養われ、当時の最高学府タキシラ大学(パキスタン・イスラマバード郊外)で医学を学び、名医となりました。その後、お釈迦様をはじめ多くの人々の治療行い、マガダ国の保健大臣にまで昇進しました。


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当時からカーストによる差別はあり、被差別民の出であったジーヴァカは差別のない治療を積極的に行おうとしますが、それには限界がありました。そこで、身分による差別のない医療機関を設立しました。これが「ジーバカのマンゴ園」と呼ばれる、2500年前の医療施設です。


 


現在は、ビンビサーラ王の牢獄と同様、石塁が残るのみですが、発掘調査の結果、当時の医療器具や手術用具と思われる遺物が出土し、ここに医療機関があった事が立証されています。霊鷲山の登山口(駐車場)のすぐ近くに位置します。肥沃な土地を持つインドは、マンゴーの栽培が盛んです。



4月下旬~6月が収穫期ですので、この期間中にインドへお出かけの際は、ぜひ、現地のフレッシュなマンゴーを食べてみてください♪


 


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舎衛城(マヘト) コーサラ国の都

2015年01月08日 11:00

ジャイナ教を信仰していたコーサラ国のプラセナジト王は、祇園精舎にお釈迦様が訪れるようになると仏教を信仰し改宗しました。それ以降、ジャイナ教徒はお釈迦様への中傷を激化し、神通力を披露するよう迫りました。お釈迦様は舎衛城でこれに応え、一度に1,000の姿になったり(千仏化現)、足元から水・頭から炎を出したり(双神変)、マンゴの種を1日で大木にしてみたり、などされました。


祇園精舎近くの舎衛城(マヘト)は、外道であるジャイナ教の修行者とお釈迦様が神通力を競った、「舎衛城の奇跡」の舞台です。そしてもう一つ、「殺人鬼アングリマーラ」の逸話も残されています。


タキシラに留学経験もある秀才のアングリマーラは、舎衛城で師匠のバラモンに仕えていました。師匠の妻にもかわいがられましたが、その関係を怪しまれ、追放されてしまいます。行くところのないアングリマーラは、悪いバラモンに『100人を殺し、切断した指を糸でつなぎネックレッスにする』ようそそのかされました。そして、99人を殺害し、100人目の殺害を謀ります。その時、そこを通りかかったのがお釈迦様でした。「動くな」と言ったアングリマーラに、お釈迦様は「私は止まっている。動いているのはお前だ」と一言い言ったところ、その途端アングリマーラはひれ伏し、刃物を捨てお釈迦様に救いを求めました。プラセナジト王は、軍隊を出してこの殺人鬼を成敗しようとしましたが、アングリマーラはお釈迦様の弟子となっていたため、命だけは助けられました。遺族から、石をぶつけられたり、なぐられたりしましたが、お釈迦様は、アングリマーラに「ただただ、耐えるように」と説かれました。


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●コーサラ国の都跡 未発掘の遺跡群


古代北インドにあった16の国(十六大国)の中で、最も勢力が強いのがコーサラ国でした。もともとはアヨーディアに置いていた都を、お釈迦様の時代には舎衛城に移していました。



5世紀初めにこの地を訪れた法顕は、プラセナジト王の宮殿が残っていたことを記していますが、広大なエリアにわたる遺跡のほとんどは発掘されておらず、荒地のような状態のまま残され、子供達の遊び場となっています。


 


●殺人鬼アングリマーラのストゥーパ



城入口の近くに“パッキクティ”と呼ばれる、ストゥ-パがあります。1世紀頃建造が開始され、その後何度かの拡張が行われたため不規則な形をしています。法顕や玄奘は、舎衛城で起きた事件の説話から「アングリマーラのストゥ-パ」と紹介しています。


 


●京都祇園祭に縁の深い 牛頭天王の祠


祇園精舎と舎衛城の中間に、牛頭天王を祀る祠があります。



「牛頭天王」とは、天然痘など疫病を防ぐ、仏教以前の時代からの土着神です。


645年、舎衛城出身の法道仙人は、播磨の国にその分身を持ち込み、広峰神社(姫路市)に奉り、人々の治療に専念しました。その後、名声が京都に伝わり、牛頭天王は京都祇園の八坂神社に奉られる事になりました。そして同時に日本に伝わった「ラータ(インドの祭りで使われる古代の戦車)」は、現在、京都の夏の風物詩となっている祇園祭・山鉾巡行の「山車」となりました。


 


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祇園精舎(サヘト) 夏の逗留地

2015年01月07日 10:00


コーサラ国に、孤独な者・貧しい者に慈善を施すスダッタ(須達多)という豪商がいました。ある時、商用でマガダ国(ラジギール)を訪問した際、お釈迦様と出会い、それ以来、お釈迦様に深く帰依し、コーサラ国にご招待しようと決意します。しかしコーサラ国には、マガダ国の竹林精舎のようにお釈迦様をお迎えする立派な場所がありません。唯一、王子(祇陀太子)が所有するマンゴ園があり、スダッタは『その土地を買いたい』と交渉を重ねますが、王子は意地悪をして譲ろうとはしません。王子は『土地に黄金を敷き詰めたなら、その分だけ土地を譲ろう』と言い出します。これに対しスダッタは、本当に牛車で黄金を運び込み、樹園に黄金を敷き詰めました。


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こうして買収した土地に建設されたのが「祇園精舎」です。お釈迦様は、お悟りから入滅までの夏の時期、祇園精舎で25回を過ごされました。仏教に“雨安吾(うあんご)”という言葉があり、「一定期間集団で修行する」ことを意味しますが、これは、「夏=インドの雨季に、お釈迦様と弟子達が祇園精舎に逗留した」ことに始まります。雨季には道の上に虫や小動物が出てくるため、むやみに歩き回ると、これらを踏んでしまう機会が多くなりますが、一所に留まっていれば、無用な殺生をしなくても済みます。この考えは、当時、対立していたジャイナ教の“不殺生”の教義を、お釈迦様が『悪説にも一理あり』と取り入れたものでした。



---ジャイナ教について--- 


教側から見た正しい道を“内道”、正しくない道を“外道”といいます。当時、仏教以外の6人の思想家がおり、“六師外道”と呼ばれました。ジャイナ教の開祖マハヴィーラもその一人です。



お釈迦様とほぼ同じ時代、バイシャリ近くのクング村で生まれたマハヴィーラは、30歳で出家します。12年間の苦行の末に悟りの境地“ジナ”を得て、72歳で死去するまで、北インドで遊行しジャイナ教の教えを説いてまわりました。2500年を経た現在、信者450万人程度、人口の0.5%に満たない少数派の宗教となっていますが、インド各地で寺院(バサディ)がみられます。仏教が、インド国内ではヒンドゥー教に吸収合併され、日本・中国・韓国など海外で主に信仰されているのとは対照的です。最大の聖地であるグジャラート州シャトルンジャヤ山パリタナには今なお多くの信者が参拝に訪れます。



ジャイナ教には非常に厳しい戒律があり、その中心が、“不殺生”と“無所有”です。不殺生を貫くため、菜食主義であるのはもちろんのこと、収穫時に土中の小動物の命を奪わないよう、玉ネギ・ジャガイモ・ニンジン・大根など根菜類も一切口にしません。無所有に関しても徹底しており、僧侶は、衣服も含め一切の所有が禁止される「裸行派」、または薄い布の服を着る事のみが許される「白衣派」のいずれかに属します。現在でも、「裸行派」の僧侶は、南インドを中心に一糸まとわぬ素裸で生活をします。



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404年にこの地を訪れた法顕は、「佛国記」に『98の伽藍があり、そのうちの1つは7層であったが鼠が燈明皿を蹴り、火災が起こり消失した』などを記録しています。603年には玄奘三蔵が訪れ、「大唐西域記」に『すでに荒廃しており、煉瓦造りの寺院が1つと柱頭部に牛の彫刻を載せたアショカ王柱があった』などを記録しています。



その後、インドから仏教が忘れ去られると、他の仏跡地と同様に荒廃の一途を辿りましたが、19世紀後半以降、宗主国イギリス人考古学者らの発掘で遺跡の全容が明らかとなりました。さらに近年の仏跡参拝者の増加で整備が進み、今日の姿があります。



祇園精舎の遺跡は、かなりの広範囲にわたります。現存する遺跡群は、1世紀のクシャナ王朝以降の時代のもので、残念ながら、スダッタにより寄進された2500年前の祇園精舎そのものは特定されていません。


 


遺跡入口から300メートルほど進むと、菩提樹の大木があります。この樹は、目連が『付近に菩提樹の木が少ない』と、神通力により、一夜のうちにブダガヤから運んできたものであると伝えられています。



さらに進むと、ガンダクティー(香堂)があります。



母君マヤ夫人は、お釈迦様の誕生1週間後にこの世を去られ、お釈迦様はマヤ夫人の妹であるマハプラジャーパティーにより養育されます。悟りをひらかれたお釈迦様は、天上界の忉利天に居られるマヤ夫人に説法される事を念願されます。ある時、祇園精舎のガンダクティーから昇天され、3か月に及ぶ説法をマヤ夫人になされました。(その後、再び降りてこられたのが「三道宝階降下の地 サンカシャ」です。)お釈迦様が3か月間居られないことで、地上界は大騒ぎになります。コーサラ国王プラセナジトは、ショックのあまり病気になってしまいました。そこで、等身大のお釈迦様の像を作ったところ、王の病は治りました。


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伝説によると、この時に刻まれた仏像は鳩摩羅什により中国に持ち込まれ、入宋していた東大寺の僧ちょう然(ねん)が983年に模刻を日本に持ち帰ったのが、京都嵯峨野の清涼寺の釈迦如来像であるといわれます。


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1985~1989年、関西大学の100周年の事業として「仏教の遺跡を、キリスト教徒・ヒンドゥー教徒以外の力で発掘しよう」との趣旨で、網干善教氏(関西大学名誉教授)による発掘調査が行われました。当初期待された「牛の像を柱頭部に載せたアショカ王柱(『大唐西域記』に記録あり)」は発見に至りませんでしたが、ガンダクティーの裏に「紀元前1世紀の巨大な沐浴池」、「ストゥーパー(複数)」、「煉瓦敷きの広場」、「僧院跡」、「グプタ王朝期の完全な形の井戸」などの遺構を検出しました。



検出された遺構は、現在、まだあまり整備が進んでいない状態で残っています。



 


●祇園精舎でのご宿泊


パワンパレス



以前は設備の整ったホテルがなく訪れるのも容易ではありませんでしたが、近年、比較的良好な宿泊施設も増えてきました。



パワンパレスもそのうちの1つで、全客室数47と比較的大きなホテルです。



お部屋にテレビや冷蔵庫がない等、設備的にはまだまだですが、衛生面・安全面では安心して快適にご滞在いただけます。



 


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