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お釈迦様ゆかりの聖地の記事一覧
サルナート 初転法輪の地
2015年01月13日 10:14
悟りをひらかれたお釈迦様は、その偉大なる境地を『人々に広めるか』、『広めたとして人々に理解されるか』と迷われます。その問題解決のため1週間の断食後、ついに説法伝導を決意されました。『果して、誰に最初に布教するか・・・』、最初に思いついたのが、かつて王舎城(ラジギール)で出会った、禅の師匠アーラダ仙とルドラカ仙でしたが、この2人は既にこの世の人ではありませんでした。次に、有縁の修行者達(五比丘)を想起されました。
お悟り前の長い間、苦行を共にした五比丘は、“苦行のための苦行には意味がない”と山を下りたお釈迦様の姿に失望し、カーシ国(現在のベナレス)のサルナートに離れてしまっていました。現れたお釈迦様を、五比丘は無視しようとしましたが、そのあまりに輝くお姿に圧倒され、お釈迦様の最初の説法(初転法輪)を授かりました。
ここに人類史上、初めて、仏教の教えが説かれた事になります。
崇高なお釈迦様の説法に鹿までもが耳を傾けた事から、この地は「鹿野苑」ともいわれます。
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仏教遺跡は、インドで仏教が衰退した後、人々に忘れ去られ、荒廃の一途をたどりました。イギリスの植民地支配の時代、イギリス人考古学者アレキサンダー・カニンガムはこうした仏教遺跡を発掘し、古代インドの仏教を次々と解明しました。サルナート遺跡群も彼により発掘された一つです。
●紀元前3世紀にアショカ王が造営 ダルマラージカ・ストゥーパ
マウリヤ王朝アショカ王は、お釈迦様の入滅後8つに分けられ埋葬された舎利のうち7か所を発掘し、8万4000箇所に再埋葬したと伝えられ、そのうちの1つがこのストゥーパです。基礎部分しか残っていませんが、これは18世紀にベナレスの王ジャガット・シンが、市場の建設資材として、石材と煉瓦をこのストゥーパから調達してしまったためです。また、その時発見された舎利容器に入れられた人骨は、ヒンドゥー教の習慣によりガンジス河に流されてしまったといわれます。
●アショカ王が仏教普及のため建立した「アショカ王柱」
ダルマラージカ・ストゥーパから少し進んだところに、3つに折れたアショカ王柱が残ります。ブラフミー文字で『教団の中で戒律を守らなかった比丘または尼比丘は、教団から追放し還俗させる。』など出家者の戒律が刻まれています。そしてこの柱頭部には、「柱頭部4頭獅子像」と呼ばれる、インドを象徴する彫刻が載せられていました。
この作品はインドの国宝の中でも最も重要なもので、インド政府の国章ともなっています。現在、隣接する考古学博物館(金曜休館)で展示されており、間近でご覧いただけます。
●古代の仏教寺院 「ムラガンダクーティ寺院(根本香堂)」
グプタ王朝期(4世紀)、この地で初転法輪が行われた事を記念し、王柱近くに寺院が建立されました。今では建造物は崩れ落ち、その基礎の部分のみが残りますが、寺院の基礎部分は一辺18.29mの四角形を呈し、その分厚い壁の構造から60メートル相当の高さを有していたと考えられます。事実、玄奘三蔵の「大唐西域記」に高さ百尺余り(今の200尺=60メートル)の精舎が空高く聳えていた事が記録されています。
●遺跡エリアの一番奥 「ダメーク・ストゥーパ」
建立されたのは、ムラガンダクーティ寺院と同じグプタ王朝期です。(この時代、ブダガヤの大菩提寺などとともに、高層の寺院や仏塔を建築するのが流行しました。)幾度かの拡張を受けており、現在は高さ43.6m 底辺直径36.6mと、この遺跡最大の建造物となっています。
下部には、一番新しい時代の華麗な蓮華唐草文様と、幾何学模様の石製装飾パネルが残りますが、上部は崩壊しており、古い時代のストゥーパの表面が露出しています。
●お釈迦様とどう向き合うかを五比丘が相談した 「パンチャヤタン」
ムラガンダクーティ寺院とダメーク・ストゥーパの間、コンクリート屋根のある遺構は、初転法輪のためブダガヤからやってきたお釈迦様とどう向き合うか、五比丘が相談したところだといわれています。現地の言葉のパンチ(5人)+ヤタン(会議)から、「パンチャヤタン」と呼ばれます。この遺構の形は、卍の字形のルーツになったとの説もあります。
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ラジギール(王舎城) 酔象調伏の地
2015年01月12日 10:00
ラジギールに、お釈迦様と敵対するディーバダッタという人物が居ました。彼は仏教教団からお釈迦様を引退させ、自らをその後継者にするよう強要したり、中道の考え方を否定し、出家者は極端に厳しい生活をするよう迫ったりしました。そしてある時、発情したアジャンタシャトル所有の象に酒をのませて暴れさせ、お釈迦様の殺害しようとしました。酔った象は街中で暴れ、多くの人達を傷つけましたが、お釈迦様の前まで来るとおとなしくなり、ついには礼拝をしました。
具体的な遺跡は残っていませんが、ガンダーラ彫刻などにこの場面を刻んだ作品が残ります。
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お釈迦様は、悟りをひらかれた35歳から涅槃に入られるまでの45年間、今日のビハール州とUP州にまたがる地域を、法を説いて遊行されました。
この地域一体は、ガンジス河によって形成された、ほとんど標高差のない地形(ヒンダスタン大平原)ですが、突如現れた5つの山に囲まれた盆地の中にあるラジギールは、国防上とても好都合でした。ここに首都を置き、当時としては先進的であった製鉄産業と豊かな農業生産により、繁栄を極めていたのが古代インド十六大国の1つ「マガダ国」でした。国王ビンビサーラ(BC542~491?)は、お釈迦様に深く帰依され、布教活動の保護をしたため、ラジギールには多くの仏教遺跡が残ります。
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●城壁
ラジギールからブダガヤに向かう途中、王舎城を取り囲み、山の稜線に沿い連なる城壁が見られます。平均5メートルの厚さの壁が、総延長41キロメートル、というスケールの大きさで、2500年前、現在のラジギールからは想像もつかないほどの大国があったことがうかがい知れます。
●戦車の轍(わだち)跡
マガダ国一帯からは、鉄鉱石が多く産出され、相当に高レベルの鉄器生産が行われ、繁栄の原動力となっていました。当時、鉄の車輪をもつ車が何度も往来したのでしょう、城壁の付近に「戦車の轍跡」の遺跡が残ります。岩盤の上に幅1メートル強の間隔で深さ30センチ前後の2条の溝が延々と刻まれ、軍事的に緊張をしていたことが想像されます。
ラジギールでのご宿泊
●法華ホテル
1984年、日本の「法華クラブ」とエア・インディア航空が、日本からの仏跡巡拝者のため共同出資し開業させました。
仏跡地の中では老舗のホテルの1つですが、現在はインパック社により運営され、手入れも比較的行き届きます。客室の一部は和室で、畳の上に日本式布団を敷いてご休憩いただけます。
2008年には新館が開業し、客室数は44部屋となりました。
日本人宿泊客の多い日には大浴場が営業し、お食事は、インドでも特に僻地のラジギールに居ることを忘れさせる、美味な日本食が提供されます。
数珠などのお土産物も豊富です。
日本からのお客様向けに大浴場もあります。
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竹林精舎 仏教史上最古の寺院
2015年01月11日 10:00
あるときマガダ国のビンビサーラ王は、悟りを開く前のお釈迦様とラジギールで出会い、『皆あの者を見よ。美しく堂々としており、歩き方も申し分ない。いやしからぬ思想の持ち主にちがいない。』と言われ、使いを出し居場所を確認させました。使いから『大王様、あの修行者は山中の洞窟で虎のように座っておりました。』との報告を受け、その洞窟に出かけ『あなたは若くて前途がある。この国の軍事指揮官になれば、地位と財産をあげよう』と申し出ます。これに対しお釈迦様は、『私は釈迦族の王だ。どうしてそのような物が必要であろうか』と述べられ、修行のため立ち去られました。その時ビンビサーラ王は、『悟りをひらいた暁には、再び王舎城を訪れられること』、そして『お釈迦様に仕えること』、『釈迦様の説法を授かること』、そして『その内容を理解できること』、の4つを念願されました。
やがて月日が過ぎ、お悟りを得たお釈迦様は、王舎城を訪問しビンビサーラ王に法を説かれました。感激した王は、竹林園をお釈迦様に寄進し、そこにお釈迦様の教えに傾倒したカランダ長者が精舎を建立し、お釈迦様と弟子達が滞在するようになりました。
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これが「竹林精舎」、仏教史上最初の寺院ということになります。現在は、近年復元された小さな精舎とカランダの池が、整備された竹林の中にあります。
大唐西域記の中で、『お釈迦様がしばしば、そのほとりで法を説いた』と記された「カランダの池」は、植民地時代のカニンガムらによる発掘調査では確認できなかった竹林精舎の位置を示す大きな手がかりとなりました。
独立後、インド政府考古局の調査により、この池が発掘され、竹林精舎がこの地にあったことが確認されました。
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ビンビサーラ王の牢獄
2015年01月10日 10:00
ビンビサーラ王と妻イダイケ夫人の間には、なかなか王子が産まれませんでした。ある時ビンビサーラ王が王子出生について、バラモンに占ってもらったところ『山中に1人の仙人が修行をしており、この仙人が死んだ時、仙人の生前の功徳で、ビンビサーラ王に王子が産まれるだろう』といわれました。それから月日が経過しますが、この仙人が死亡する気配など全くありませんでした。そこでビンビサーラ王は刺客を送り、この仙人を殺害してしまいます。
その後間もなく占いのとおり、イダイケ夫人は身ごもりしました。そこでもう一度バラモンに占ってもらったところ『非業の死をとげた仙人はあなたの事を怨んでいる。その子は仙人の怨念で親を殺すような人物になるであろう』と断言され、堕胎を進めました。ビンビサーラ王はこの事をお釈迦様に相談したところ、生命の尊さを説かれ堕胎する事は禁じられました。こうして産まれたのが、アジャンタシャトル(アジャセ王)です。
アジャンタシャトルは王子として、何ひとつ不自由のない生活を送り成人します。ところがある時、お釈迦様と敵対するディーバダッタという人物に、その出生の秘密を聞かされます。そしてその事実に怒り、父であるビンビサーラ王を牢獄に幽閉し、食事を提供する事も禁じてしまいました。ところが、ビンビサーラ王は3週間経過しても死亡する事はありませんでした。これはイダイケ夫人が体にバターを塗り王と面会し王に提供していたためでした。この事に気づいたアジャンタシャトルは、イダイケ夫人の面会も禁じ、その7日後ビンビサーラ王はこの世を去りました。
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仏教に帰依し、竹林精舎の寄進など、お釈迦様の布教活動に多大な支援をしたビンビサーラ王ですが、その最後は、一人息子であるアジャンタシャトル(アジャセ王)により牢獄に監禁され、食物を与えられず、飢えて最後をむかえるという、残酷なものでした。この事態に嘆き悲しむイダイケ夫人に説かれたのが「観無量寿経」です。
●悲劇の舞台 ビンビサーラ王の牢獄
当時は7重の壁で囲まれた堅個な牢獄だったと伝えられていますが、今日は1辺およそ70メートルの石塁のみが残ります。霊鷲山の麓から竹林精舎に向かう途中に位置します。
●アジャセ王のストゥーパ
ビンビサーラ王を監禁し、死に至らしめた王子アジャンタシャトルも、後にお釈迦様に会い、仏教に帰依します。
竹林精舎の前の広場に、崩壊したストゥーパが残ります。お釈迦様入滅後、8国に舎利が分配された際、マガダ国が持ち帰った舎利を収めるために、アジャンタシャトルが建立した仏塔といわれます。
しかし、玄奘三蔵の大唐西域記には、『このストゥーパはアショカ王によって建立されたもので、近くにアショカ王柱があり、その柱頭部には象の彫刻が載せられていた』と記されています。残念ながら、このアショカ王柱は発見されていません。
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マンゴー園 名医ジーヴァカが寄進
2015年01月09日 10:00
マガダ国にジーヴァカ(祇婆)という人物がいました。売春婦の捨て子として産まれましたが、才能を見出されビンビサーラ王に養われ、当時の最高学府タキシラ大学(パキスタン・イスラマバード郊外)で医学を学び、名医となりました。その後、お釈迦様をはじめ多くの人々の治療行い、マガダ国の保健大臣にまで昇進しました。
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当時からカーストによる差別はあり、被差別民の出であったジーヴァカは差別のない治療を積極的に行おうとしますが、それには限界がありました。そこで、身分による差別のない医療機関を設立しました。これが「ジーバカのマンゴ園」と呼ばれる、2500年前の医療施設です。
現在は、ビンビサーラ王の牢獄と同様、石塁が残るのみですが、発掘調査の結果、当時の医療器具や手術用具と思われる遺物が出土し、ここに医療機関があった事が立証されています。霊鷲山の登山口(駐車場)のすぐ近くに位置します。肥沃な土地を持つインドは、マンゴーの栽培が盛んです。
4月下旬~6月が収穫期ですので、この期間中にインドへお出かけの際は、ぜひ、現地のフレッシュなマンゴーを食べてみてください♪
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