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アショカツアーズ流インドの歩き方

カピラヴァースト(カピラ城) 釈迦族の都跡

2015年01月18日 10:34


お釈迦様は「シッダルタ」と名づけられ、お城で何一つ不自由のない王子としての生活を送り、19歳の時には、スプラブッタの王女ヤショダラ姫と結婚します。しかし、お釈迦様は宮廷内での華美な生活に満足する事はなく、29歳の時愛馬カンタカにまたがり出家されました。


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近世以降の発掘調査により、多くの仏跡地の位置が確証されてきました。しかし、シャカ族の都跡「カピラヴァースト(カピラ城)」については、ネパール領“ティラウラコット”と、インド領“ピプラワ”の2つの説があり、確証に至っていません。これには、法顕「仏国記」(5C)の『ルンビニの西15Kmにカピラヴァーストあり』と、玄奘三蔵「大唐西域記」(7C)の『ルンビニからサラクーパを経て23Km』との、記述の相違が関係しています。


 


●カピラ城跡その1 ティラウラコット


ルンビニから西に約20㎞の町タウリハワーから、さらに北に約5キロ進むとティラウラコットの遺跡に到着します。(所要片道約1時間) 城跡の遺跡は南北500メートル・東西450メートルと広範囲に及び、ネパール政府考古局により、城の西門と東門等、一部の発掘調査が行われています。


西門


東門


仏教の説話に、“四門出遊(『カピラ城に暮らすシッダルタ王子は、東門から外に出て老人と、南門から外に出て病人と、西門から外に出て死人と、北門から外に出て修行僧と遭遇し、出家を決意された』) ”があり、また「大唐西域記」の記録に『カピラ城には高い城壁があり四方に4つの門があった』とあります。発掘された東門・西門は、これらの話に符合しており、実際に訪れると臨場感があります。


 


●カピラ城跡その2 ピプラワ



一方、ピプラワの遺跡は、ティラウラコットの南およそ20㎞のインド領に所在します。(ティラウラコットから向かう場合、ネパール・インド間の国境越えが必要) 


1897~1898年に第一次発掘調査が行われ、直径35mのストゥーパーから6つの「舎利(遺骨)容器」が発見されました。その1つには『これは釈迦族の仏・世尊の舎利容器である』とのブラフミー文字の刻銘があり、クシナガラで荼毘に付され、ドローナ仙の調停で8つに分けられた仏舎利の1つであることを示します。1971~1977年に行われた発掘調査では、31個の印章が発見され、その中からカピラ城に関する文字が認められました。城跡の遺構は検出されていませんが、これらの発見は、「ピプラワがカピラ城であった」という説をとなえる人達の大きな根拠となっています。


※パッケージツアーの基本プランにはカピラ城の見学は含みませんが、ルンビニを訪れるコースに追加で組み込むことも可能です。(延泊が必要な場合もあります。)


 


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