お釈迦様が説法で説かれた御教えは、当初は弟子達が記憶していただけで、体系的に文書として記録される事はありませんでした。それではやがて「歪みが生じ」、「将来的に正しい教えが継承されない」可能性があったため、弟子やお釈迦様に関係した人達が集まり、お釈迦様の教えを整理・記録をする『結集(けつじゅう)』という作業が行われました。
第1回目はBC477年にラジギールにて、100年後(BC377年)にバイシャリにて第2回、さらに133年後(BC244年)にパータリプトラで第3回、と合計3回行われました。
●第一結集 七葉窟
アジャータシャトル(父であるマガダ王ビンビサーラの殺害という、最大の親不孝をはたらきながら、改心しお釈迦様に帰依するようになった)が主催者となり、結集が行われました。当時存命だったカーシャパやアーナンダなどの弟子達と、高僧500人が集まりました。その場所といわれるのがラジギール近郊、ヴァイバーラ山中腹にある奥行36メートルの自然にできた洞窟「七葉窟」です。
奥に行くほど狭くなっており、「500人がここで一同に会した」とはにわかに信じられないところではあります。
※七葉窟へは長い山道で、霊鷲山と比べてもかなりハードです。また往復に相当な時間を要するため、通常ツアーでは訪れません。
※パッケージツアーの基本プランには七葉窟の見学は含みませんが、ラジギールで延泊をされますと、訪問が可能です。
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●第三結集 クムラハール(鶏園寺)
バイシャリ第二結集が行われた133年後、マウリヤ王朝の都パータリプトラ(現在のパトナ市)のクムラハール(鶏園寺)で結集が行われました。
アショカ王の呼びかけで1000人の僧侶が招集され、経・律・論がまとめられました。
– マウリヤ王朝の勃興 –
BC330年、アレクサンドロス大王は、ペルセポリスに攻め込みアケメネス朝ペルシャを滅ぼし、さらに東進し、ガンダーラなどインダス河流域も支配下に組み入れました。
しかし形勢は逆転し、アレクサンドロス大王はバビロンで客死し、シリア王セレウコスがこれらの地を支配するようになりました。
ちょうどこの時期、インドではチャンドラ・グプタがマガダ国を滅ぼし、セレウコスと象500頭と引き換えに、ヒンドゥークシ山脈以南・西北インド一帯を入手し、マウリヤ王朝を興しました。
– アショカ大王の仏教帰依 –
マウリヤ王朝3代目アショカ大王は、祖父から引き継いだアフガニスタンから北インド全域の領土に加え、カリンガー国の領地だったベンガル湾岸地域も支配下に置こうと、カリンガーの戦を仕掛けます。
アショカ大王は、この戦いで戦争の悲惨さを実感し、仏教に帰依しダルマ(宇宙の法)による政治を行うよう、路線変更を行いました。
クムラハール遺跡からは、研磨された光沢のある80本以上の列柱をもつ“百柱の間”が発見されています。
その形状は、ペルセポリスのアパダーナ(謁見の間)と類似しており、アショカ大王はアケメネス朝ペルシャと活発な交流があった事を示しています。
※パッケージツアーの基本プランには、クムラハールの見学は含みませんが、パトナ経由でラジギールやバイシャリを訪れるコースに追加で組み込むことも可能です。(延泊が必要な場合もあります。)
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