祇園精舎(サヘト) 夏の逗留地

コーサラ国に、孤独な者・貧しい者に慈善を施すスダッタ(須達多)という豪商がいました。ある時、商用でマガダ国(ラジギール)を訪問した際、お釈迦様と出会い、それ以来、お釈迦様に深く帰依し、コーサラ国にご招待しようと決意します。しかしコーサラ国には、マガダ国の竹林精舎のようにお釈迦様をお迎えする立派な場所がありません。唯一、王子(祇陀太子)が所有するマンゴ園があり、スダッタは『その土地を買いたい』と交渉を重ねますが、王子は意地悪をして譲ろうとはしません。王子は『土地に黄金を敷き詰めたなら、その分だけ土地を譲ろう』と言い出します。これに対しスダッタは、本当に牛車で黄金を運び込み、樹園に黄金を敷き詰めました。

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こうして買収した土地に建設されたのが「祇園精舎」です。お釈迦様は、お悟りから入滅までの夏の時期、祇園精舎で25回を過ごされました。仏教に“雨安吾(うあんご)”という言葉があり、「一定期間集団で修行する」ことを意味しますが、これは、「夏=インドの雨季に、お釈迦様と弟子達が祇園精舎に逗留した」ことに始まります。雨季には道の上に虫や小動物が出てくるため、むやみに歩き回ると、これらを踏んでしまう機会が多くなりますが、一所に留まっていれば、無用な殺生をしなくても済みます。この考えは、当時、対立していたジャイナ教の“不殺生”の教義を、お釈迦様が『悪説にも一理あり』と取り入れたものでした。

—ジャイナ教について— 

教側から見た正しい道を“内道”、正しくない道を“外道”といいます。当時、仏教以外の6人の思想家がおり、“六師外道”と呼ばれました。ジャイナ教の開祖マハヴィーラもその一人です。

お釈迦様とほぼ同じ時代、バイシャリ近くのクング村で生まれたマハヴィーラは、30歳で出家します。12年間の苦行の末に悟りの境地“ジナ”を得て、72歳で死去するまで、北インドで遊行しジャイナ教の教えを説いてまわりました。2500年を経た現在、信者450万人程度、人口の0.5%に満たない少数派の宗教となっていますが、インド各地で寺院(バサディ)がみられます。仏教が、インド国内ではヒンドゥー教に吸収合併され、日本・中国・韓国など海外で主に信仰されているのとは対照的です。最大の聖地であるグジャラート州シャトルンジャヤ山パリタナには今なお多くの信者が参拝に訪れます。

ジャイナ教には非常に厳しい戒律があり、その中心が、“不殺生”と“無所有”です。不殺生を貫くため、菜食主義であるのはもちろんのこと、収穫時に土中の小動物の命を奪わないよう、玉ネギ・ジャガイモ・ニンジン・大根など根菜類も一切口にしません。無所有に関しても徹底しており、僧侶は、衣服も含め一切の所有が禁止される「裸行派」、または薄い布の服を着る事のみが許される「白衣派」のいずれかに属します。現在でも、「裸行派」の僧侶は、南インドを中心に一糸まとわぬ素裸で生活をします。

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404年にこの地を訪れた法顕は、「佛国記」に『98の伽藍があり、そのうちの1つは7層であったが鼠が燈明皿を蹴り、火災が起こり消失した』などを記録しています。603年には玄奘三蔵が訪れ、「大唐西域記」に『すでに荒廃しており、煉瓦造りの寺院が1つと柱頭部に牛の彫刻を載せたアショカ王柱があった』などを記録しています。

その後、インドから仏教が忘れ去られると、他の仏跡地と同様に荒廃の一途を辿りましたが、19世紀後半以降、宗主国イギリス人考古学者らの発掘で遺跡の全容が明らかとなりました。さらに近年の仏跡参拝者の増加で整備が進み、今日の姿があります。

祇園精舎の遺跡は、かなりの広範囲にわたります。現存する遺跡群は、1世紀のクシャナ王朝以降の時代のもので、残念ながら、スダッタにより寄進された2500年前の祇園精舎そのものは特定されていません。

 

遺跡入口から300メートルほど進むと、菩提樹の大木があります。この樹は、目連が『付近に菩提樹の木が少ない』と、神通力により、一夜のうちにブダガヤから運んできたものであると伝えられています。

さらに進むと、ガンダクティー(香堂)があります。

母君マヤ夫人は、お釈迦様の誕生1週間後にこの世を去られ、お釈迦様はマヤ夫人の妹であるマハプラジャーパティーにより養育されます。悟りをひらかれたお釈迦様は、天上界の忉利天に居られるマヤ夫人に説法される事を念願されます。ある時、祇園精舎のガンダクティーから昇天され、3か月に及ぶ説法をマヤ夫人になされました。(その後、再び降りてこられたのが「三道宝階降下の地 サンカシャ」です。)お釈迦様が3か月間居られないことで、地上界は大騒ぎになります。コーサラ国王プラセナジトは、ショックのあまり病気になってしまいました。そこで、等身大のお釈迦様の像を作ったところ、王の病は治りました。

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伝説によると、この時に刻まれた仏像は鳩摩羅什により中国に持ち込まれ、入宋していた東大寺の僧ちょう然(ねん)が983年に模刻を日本に持ち帰ったのが、京都嵯峨野の清涼寺の釈迦如来像であるといわれます。

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1985~1989年、関西大学の100周年の事業として「仏教の遺跡を、キリスト教徒・ヒンドゥー教徒以外の力で発掘しよう」との趣旨で、網干善教氏(関西大学名誉教授)による発掘調査が行われました。当初期待された「牛の像を柱頭部に載せたアショカ王柱(『大唐西域記』に記録あり)」は発見に至りませんでしたが、ガンダクティーの裏に「紀元前1世紀の巨大な沐浴池」、「ストゥーパー(複数)」、「煉瓦敷きの広場」、「僧院跡」、「グプタ王朝期の完全な形の井戸」などの遺構を検出しました。

検出された遺構は、現在、まだあまり整備が進んでいない状態で残っています。

 

●祇園精舎でのご宿泊

パワンパレス

以前は設備の整ったホテルがなく訪れるのも容易ではありませんでしたが、近年、比較的良好な宿泊施設も増えてきました。

パワンパレスもそのうちの1つで、全客室数47と比較的大きなホテルです。

お部屋にテレビや冷蔵庫がない等、設備的にはまだまだですが、衛生面・安全面では安心して快適にご滞在いただけます。

 

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