ビンビサーラ王と妻イダイケ夫人の間には、なかなか王子が産まれませんでした。ある時ビンビサーラ王が王子出生について、バラモンに占ってもらったところ『山中に1人の仙人が修行をしており、この仙人が死んだ時、仙人の生前の功徳で、ビンビサーラ王に王子が産まれるだろう』といわれました。それから月日が経過しますが、この仙人が死亡する気配など全くありませんでした。そこでビンビサーラ王は刺客を送り、この仙人を殺害してしまいます。
その後間もなく占いのとおり、イダイケ夫人は身ごもりしました。そこでもう一度バラモンに占ってもらったところ『非業の死をとげた仙人はあなたの事を怨んでいる。その子は仙人の怨念で親を殺すような人物になるであろう』と断言され、堕胎を進めました。ビンビサーラ王はこの事をお釈迦様に相談したところ、生命の尊さを説かれ堕胎する事は禁じられました。こうして産まれたのが、アジャンタシャトル(アジャセ王)です。
アジャンタシャトルは王子として、何ひとつ不自由のない生活を送り成人します。ところがある時、お釈迦様と敵対するディーバダッタという人物に、その出生の秘密を聞かされます。そしてその事実に怒り、父であるビンビサーラ王を牢獄に幽閉し、食事を提供する事も禁じてしまいました。ところが、ビンビサーラ王は3週間経過しても死亡する事はありませんでした。これはイダイケ夫人が体にバターを塗り王と面会し王に提供していたためでした。この事に気づいたアジャンタシャトルは、イダイケ夫人の面会も禁じ、その7日後ビンビサーラ王はこの世を去りました。
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仏教に帰依し、竹林精舎の寄進など、お釈迦様の布教活動に多大な支援をしたビンビサーラ王ですが、その最後は、一人息子であるアジャンタシャトル(アジャセ王)により牢獄に監禁され、食物を与えられず、飢えて最後をむかえるという、残酷なものでした。この事態に嘆き悲しむイダイケ夫人に説かれたのが「観無量寿経」です。
●悲劇の舞台 ビンビサーラ王の牢獄
当時は7重の壁で囲まれた堅個な牢獄だったと伝えられていますが、今日は1辺およそ70メートルの石塁のみが残ります。霊鷲山の麓から竹林精舎に向かう途中に位置します。
●アジャセ王のストゥーパ
ビンビサーラ王を監禁し、死に至らしめた王子アジャンタシャトルも、後にお釈迦様に会い、仏教に帰依します。
竹林精舎の前の広場に、崩壊したストゥーパが残ります。お釈迦様入滅後、8国に舎利が分配された際、マガダ国が持ち帰った舎利を収めるために、アジャンタシャトルが建立した仏塔といわれます。
しかし、玄奘三蔵の大唐西域記には、『このストゥーパはアショカ王によって建立されたもので、近くにアショカ王柱があり、その柱頭部には象の彫刻が載せられていた』と記されています。残念ながら、このアショカ王柱は発見されていません。
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