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アショカツアーズ流インドの歩き方

ブダガヤ(ブッダガヤの大菩提寺【世界遺産】) 成道の地

2015年01月15日 10:30


お釈迦様は前正覚山での5年に及ぶ苦行の末、古代インド宗教・バラモン教修行者達が行う、「“苦行のための苦行”は無意味だ」と悟ります。苦行を捨て、ついには山を降り、村でスジャータという娘から乳粥の供養を受けます。そして尼蓮禅河を渡り、菩提樹の木の下で覚りのための瞑想に入り、7日後成道の境地に達せられました。 35歳の時でした。


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2002年に世界遺産登録された、人類にとって記念すべき聖地“ブダガヤ”には高さ52メートルの大菩提寺が聳え、偉大な聖地である事を直感させます。寺院裏には、真の成道の座“金剛宝座”と菩提樹の大木が、寺院横には『悟りの境地を人々に伝え広げるか否かで迷われ、歩まれた足跡に蓮華の花が開いた』という説話を表現した、蓮華レリーフの19の経行石が残ります。


 


●古来より多くの人々が参拝した 大菩提寺(大塔)



紀元前3世紀のマウリヤ朝アショカ王も度々訪問し、その様子がサンチーの第1ストゥーパーの彫刻にも残されています。その彫刻に残る塔の形は、現在の姿↑とだいぶ異なり、むしろ「クシナガラの大涅槃寺」↓に近い形をしています。


<=クシナガラの涅槃堂


玄奘三蔵がAD635年に訪問した際の記録には、『正方形の基底の上にピラミッド型に聳え立つ建物あり、これはグプタ王朝1世サムドラ・グプタ(AD335~385)により建立された』とあり、この時の姿は今とほぼ同じであったと考えられます。



鳥居のような石製の門をくぐってお寺へ進みますが、寺院としては珍しく、階段を「下りて」参拝します。これには歴史的な理由があります。


仏教が衰退した13世紀、アフガニスタンのバクティヤール・ハルジーが率いるイスラム軍団が北インドに攻め入ります。イスラム教では偶像崇拝が禁じられ、偶像の存在自体が罪であると考えられたため、仏教・ヒンドゥー教・ジャイナ教の寺院・仏像・神像の破壊が行われました。そこでブダガヤに僅かに残った仏教徒は、大菩提寺を破壊から守るため、土で覆って小高い丘に偽装しました。


その後約600年間、埋もれたままとなります。そして19世紀、イギリス人考古学者カニンガムの調査により埋められていた寺院が発掘され、今日の姿を取り戻したのです。本堂が建っている地盤が周りの土地のよりも低くなっていることが、史実を如実に物語っています。


 



本堂内部には、金色に塗られたお釈迦様の「降魔成道像」が安置されています。『お釈迦様が悟りを得た時、悪魔が退散し、触地印を示したお釈迦様の悟りが本物であると、地神が証明した』という説話により、人差し指を下に向けた「触地印」を示しています。9世紀のパーラ王朝時代、仏像が黒い石に彫られていた時期の作品で、本来は黒色ですが、仏滅2500年の際にビルマ人により金箔が貼られ、今日の姿となりました。


 




寺院横には、『悟りの境地を人々に伝え広げるか否かで迷われ、歩まれた足跡に蓮華の花が開いた』という説話を表現した、蓮華レリーフの19の経行石が残ります。そして、寺院の壁にはお釈迦様の座像が彫刻されています。



 


●真の成道の座 金剛宝座と菩提樹の聖木



本堂裏側に、「まさにこの場所でお釈迦様が悟りを得た」事を示す金剛宝座と、菩提樹の聖木があります。金剛宝座は、紀元前3世紀のマウリヤ王朝期・アショカ王の時代の作品だとされ、135㎝×128㎝、厚さ15㎝の石盤の表面には幾何学模様が彫られています。現在は金剛宝座の周りには欄楯がめぐらされ、立ち入りができないうえ、幾重にも布がかけられているため、その姿を確認する事はできません。




この金剛宝座に覆いかぶさるように鎮座する菩提樹の大木は、お釈迦様の悟り時の菩提樹の「孫」にあたる、大変に仏縁の深い聖木です。説話によると、アショカ王の息子マヒンドラが、仏教布教のためスリランカに渡った際、妹のサンガ・ミッタがお釈迦様お悟りの菩提樹の枝を持って同行し、アヌダラプーラの地に植樹しました。これがしっかり根付き、今日まで枯れる事なく「スリマハ菩提樹」と呼ばれるスリランカの国の宝となっています。この「スリハマ菩提樹」の分け木が、このブダガヤの菩提樹の聖木です。


 


●アショカ王が仏教普及のため建立した「アショカ王柱」



マウリヤ国領土に30本程度が建立され、現在15本が現存する「アショカ王柱」の1つをブダガヤでも見ることができます。残念ながら柱頭部の彫刻は現時点では発見されていません。


 


●お釈迦様を暴風雨から守った ムチリンダ龍王の池



王柱が安置される場所の近くに、ムチリンダ龍王の像が奉られる池があります。


お釈迦様の成道後5週目に、ブダガヤを暴風雨が襲った際、ムチリンダ龍王はお釈迦様の体に7回巻きつき、7つの頭で天蓋をつくり、風雨と寒さから守りました。その後ムチリンダは人間になり、お釈迦様に帰依しました。


ムチリンダ龍王は日本ではあまり知られませんが、ガンダーラ(パキスタン)にも作品があり、アンコールワットやボロブドール等東南アジアの遺跡でも、多くの像が発見されています。


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ブダガヤでのご宿泊


●ロイヤルレジデンシーホテル





2002年開業、ブダガヤで最も設備が整ったホテルです。全客室数64部屋はブダガヤ最大規模で、館内には、エア・インディア航空やタイ航空の事務所、仏跡地地に5つホテルを運営するインパック社の事務所がテナントとして入ります。



レストランでは、中華・洋食・インド食のメニューが揃い、館内の無農薬・有機農園で栽培された、新鮮で安全な野菜が使われています。


 


●ホテル・スジャータ






大菩提寺の近く、日本寺のすぐ近くに位置する比較的設備の整うホテルです。ブダガヤでは老舗のホテルで団体旅行・個人旅行のお客様の対応にも慣れています。館内には日本式の大浴場があります。


 


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迎仏塔 五比丘がお釈迦様をお迎えした地

2015年01月14日 12:28

五比丘は、当初はお釈迦様を“苦行を捨てた脱落者だ”と考え、適当にあしらうつもりにしていました。しかし、近づいてきたお姿があまりに光り輝く様を見て、自然にお迎えし、初転法輪を受け入れました。



遺跡エリアから少し離れた場所に、初転法輪のためブダガヤからやってきたお釈迦様を、五比丘達が迎えたといわれる地があります。


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4~5世紀のグプタ王朝期にこの地の記念としてストゥーパが建造されました。現地では、「チョウカンディ・ストゥーパ」と呼ばれます。上部の八角形の建物は、1588年にムガール帝国3代目のアクバルによって建てられた見張り台です。


 


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サルナート 初転法輪の地

2015年01月13日 10:14


悟りをひらかれたお釈迦様は、その偉大なる境地を『人々に広めるか』、『広めたとして人々に理解されるか』と迷われます。その問題解決のため1週間の断食後、ついに説法伝導を決意されました。『果して、誰に最初に布教するか・・・』、最初に思いついたのが、かつて王舎城(ラジギール)で出会った、禅の師匠アーラダ仙とルドラカ仙でしたが、この2人は既にこの世の人ではありませんでした。次に、有縁の修行者達(五比丘)を想起されました。


お悟り前の長い間、苦行を共にした五比丘は、“苦行のための苦行には意味がない”と山を下りたお釈迦様の姿に失望し、カーシ国(現在のベナレス)のサルナートに離れてしまっていました。現れたお釈迦様を、五比丘は無視しようとしましたが、そのあまりに輝くお姿に圧倒され、お釈迦様の最初の説法(初転法輪)を授かりました。


ここに人類史上、初めて、仏教の教えが説かれた事になります。



崇高なお釈迦様の説法に鹿までもが耳を傾けた事から、この地は「鹿野苑」ともいわれます。


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仏教遺跡は、インドで仏教が衰退した後、人々に忘れ去られ、荒廃の一途をたどりました。イギリスの植民地支配の時代、イギリス人考古学者アレキサンダー・カニンガムはこうした仏教遺跡を発掘し、古代インドの仏教を次々と解明しました。サルナート遺跡群も彼により発掘された一つです。


 


●紀元前3世紀にアショカ王が造営 ダルマラージカ・ストゥーパ




マウリヤ王朝アショカ王は、お釈迦様の入滅後8つに分けられ埋葬された舎利のうち7か所を発掘し、8万4000箇所に再埋葬したと伝えられ、そのうちの1つがこのストゥーパです。基礎部分しか残っていませんが、これは18世紀にベナレスの王ジャガット・シンが、市場の建設資材として、石材と煉瓦をこのストゥーパから調達してしまったためです。また、その時発見された舎利容器に入れられた人骨は、ヒンドゥー教の習慣によりガンジス河に流されてしまったといわれます。


 


●アショカ王が仏教普及のため建立した「アショカ王柱」




ダルマラージカ・ストゥーパから少し進んだところに、3つに折れたアショカ王柱が残ります。ブラフミー文字で『教団の中で戒律を守らなかった比丘または尼比丘は、教団から追放し還俗させる。』など出家者の戒律が刻まれています。そしてこの柱頭部には、「柱頭部4頭獅子像」と呼ばれる、インドを象徴する彫刻が載せられていました。



この作品はインドの国宝の中でも最も重要なもので、インド政府の国章ともなっています。現在、隣接する考古学博物館(金曜休館)で展示されており、間近でご覧いただけます。


 


●古代の仏教寺院 「ムラガンダクーティ寺院(根本香堂)」



グプタ王朝期(4世紀)、この地で初転法輪が行われた事を記念し、王柱近くに寺院が建立されました。今では建造物は崩れ落ち、その基礎の部分のみが残りますが、寺院の基礎部分は一辺18.29mの四角形を呈し、その分厚い壁の構造から60メートル相当の高さを有していたと考えられます。事実、玄奘三蔵の「大唐西域記」に高さ百尺余り(今の200尺=60メートル)の精舎が空高く聳えていた事が記録されています。


 


●遺跡エリアの一番奥 「ダメーク・ストゥーパ」



建立されたのは、ムラガンダクーティ寺院と同じグプタ王朝期です。(この時代、ブダガヤの大菩提寺などとともに、高層の寺院や仏塔を建築するのが流行しました。)幾度かの拡張を受けており、現在は高さ43.6m 底辺直径36.6mと、この遺跡最大の建造物となっています。



下部には、一番新しい時代の華麗な蓮華唐草文様と、幾何学模様の石製装飾パネルが残りますが、上部は崩壊しており、古い時代のストゥーパの表面が露出しています。


 


●お釈迦様とどう向き合うかを五比丘が相談した 「パンチャヤタン」



ムラガンダクーティ寺院とダメーク・ストゥーパの間、コンクリート屋根のある遺構は、初転法輪のためブダガヤからやってきたお釈迦様とどう向き合うか、五比丘が相談したところだといわれています。現地の言葉のパンチ(5人)+ヤタン(会議)から、「パンチャヤタン」と呼ばれます。この遺構の形は、卍の字形のルーツになったとの説もあります。



 


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考古学博物館 サールナート出土品を展示

2015年01月13日 10:13


サールナート遺跡のすぐ近くに、出土品を収蔵する考古学博物館が建っています。小規模ながらインド第一級の文化財が展示されており、一見の価値ありです。


 


■【柱頭四頭獅子像】



遺跡エリアに残るアショカ王柱の上部に載せられていた彫刻が、博物館の入口正面に展示されています。マウリヤ王朝期の作品で、博物館内では最古の彫刻作品です。下部には「蓮弁」があり、その上に「獅子-法輪-象-法輪-牛-法輪-馬-法輪」が彫刻されています。


この像が表すものには、それぞれに意味や由来があります。


 四方を向いた4頭の獅子・・・『世界中にあまなく仏教が広がるように』という念願


 法輪・・・お釈迦様の最初の説法(初転法輪)


 四大聖獣
 獅子・・・お釈迦様には「釈迦族の獅子」の異名があった
 象・・・マヤ夫人がお釈迦様を懐妊されるとき白象の夢をみた
 牛・・・お釈迦様の「ゴータマ」という名前には「最良の牛」という意味があった
 馬・・・お釈迦様の出家は馬に乗って行われた


インドの国宝の中でも最も重要な作品で、インド政府の国章ともなっています。お札にも印刷されています。



 


■【転法輪印仏陀坐像(初転法輪像)】


ガンダーラ・マトゥーラで1世紀頃考案された仏像は、5世紀を中心としたグプタ王朝の時代に、最も洗練された様式美を完成させました。その中の最高傑作の1つが、サルナートから出土し、考古学博物館の左館の一番奥に収蔵される転法輪印仏陀坐像でしょう。(写真は、ムラガンダクーティ寺院内に奉られたレプリカです。)



お釈迦様の「初転法輪」を表す像で、その表情は端正で慈愛に満ちています。大型の光背の上部には“飛天”が刻まれ、光背の下の両脇には“伝説の魚マカラ”、その下には“有翼の獅子レオ・グリュフ”が表現されます。印相(手の形)は「転法輪印」を組み、台座の中央には“法輪”、両脇に“五比丘”、“初転法輪を五比丘とともに聞いた鹿”が表現されています。“左端の女性と子供”はこの作品を寄進した在家の親子だと考えられます。 


その他、仏陀や神々の像、仏教説話のレリーフなど、さまざまな彫刻が展示されています。





 


入口でX線検査を受けて入場します。館内は写真撮影禁止で、カメラやビデオなどの撮影機器は一切、持ち込めません。



※当社企画ツアーでは、サールナートを訪れる日が休館日(金曜)にあたる場合、ご見学いただけません。


 


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ムーラガンダクティ寺院 野生司香雪の壁画

2015年01月13日 10:11


サルナートでの初転法輪の後、お釈迦様はラジギールと祇園精舎を拠点にされ、世に仏法をお広めになりました。そして何世紀もの年月をかけ、スリランカやタイ、中国、韓国、日本へと伝えられました。仏教は、インド国内では衰退してしまった一方で、外国ではそれぞれの国や民族の文化にあわせて形は変わりつつも根付いています。サールナートは今日、インドだけでなく世界中の仏教徒にとって大切な聖地となっています。


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スリランカ人僧侶ダルマパーラ師は、初転法輪の地・サルナートに再び祈りの場をつくろうと「マハボディ・ササエティー」を組織し、1931年に寺院を建立しました。入口直上に、日本仏教連合会から寄進された梵鐘が吊るされ、清水寺管長であった大西良慶師による文字が記されています。そして内部の壁面には、日本人画家、野生司香雪(のうすこうせつ)による、お釈迦様の生涯がテーマの躍動感溢れる壁画が描かれています。


~野生司香雪(のうす こうせつ)画伯~香川県出身の日本画家、父は浄土真宗の僧侶。東京美術学校(現東京芸大)卒、長野善光寺の雲上殿壁画(昭和22年)を手掛けました。アジャンタ壁画の模写を手伝った経歴(大正6年)と、詩人タゴールと交流が縁で、昭和7年に、サルナートのムラガンダクティ寺院に派遣され、お釈迦様の一生の壁画を描きました。(1885-1973)




寺院横には「初転法輪を行うお釈迦様と五比丘」の像があり、菩提樹の大木が茂ります。この樹は、寺院落慶の際に、スリランカ・アヌダラプーラの「スリマハ菩提樹」から株分けされたもので、ブダガヤの金剛宝座の上に茂る聖木の“兄弟”にあたります。




 


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