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アショカツアーズ流インドの歩き方

インド・ネパール観光名所の記事一覧

アンベール城 象のタクシー @ジャイプール

2015年03月06日 15:18

ジャイプール郊外のアンベール城は、丘の上に建っています。



ふもとからお城の門までは、ちょっとした坂の道のりです。



徒歩や車でも上れますが、このお城の名物は「象のタクシー」!



おしゃれなマントを羽織った大きな象さんに、4人が乗れます。


乗り心地は・・・象さんの一歩一歩が伝わってくる感じです。


ずしん、ずしん、ゆっさ、ゆっさ、、、


背が高いので、見晴らしは最高です♪



マハラジャになった気分で☆


 


■運行数に限りがあります


大人気のサービスですが、10年ほど前、あまりにも働かされた象さんが怒って暴れる事件があって以来、一日の運行数が限定されることになりました。


このため、10月~3月の北インド観光のピークシーズンでは、朝一番に行って並ばなければ乗れないことも多いです。


当社のツアーでは、可能な限り象のタクシーにお乗りいただけるよう努めますが、状況によってむずかしい場合がございます。(その際は代わりにジープをご用意します。)


楽しみにされている方にはとても残念なことですが、象さんを守るためですのでご理解をお願いいたします。


 


■12日間×年に2回 お祭りへの出張で運休します


例年、3月下旬~4月上旬と、9月下旬~10月上旬に9日間に渡り行われる「ナヴラートリ祭り」のお手伝いに、アンベール城の全ての象さんたちが貸し出されます。


このため、祭り期間中+前後2日の約12日間は、完全に運休になってしまいます。


 


 


「ナヴラートリ」とは、「ナヴ(नौ)=9」+「ラート(रात)=夜」=「九つの夜」の意味です。


ヒンドゥー教のドゥルガー女神を祀り、祈りや踊りを捧げます。



ドゥルガー女神は、獅子に乗った姿が特徴です。


 


●ナヴラトリは年に2回、日程は毎年変わります●


2015年3月21日(土)~28日(土) ※象のタクシーは3/19~3/30が運休
2015年10月13日(火)~22日(木)
2016年4月8日(金)~15日(金)
2016年10月1日(土)~9日(日)


 


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仏教美術の最高峰 アジャンタ石窟群【世界遺産】

2015年01月30日 13:56


アジャンタは当初、仏教を学ぶ僧たちが集い、ビハーラ(僧院)に住みながら、チャイティア(寺院)で修行を行う場でした。


しかし6世紀頃より仏教は衰退のかげりを見せ始め、僧たちはだんだんと離れて行きます。


そして、いつしか誰もいなくなり、忘れ去られた存在となりました。


 


~ 千年もの時が流れました ~


 


19世紀のある日、イギリス人将校がトラ狩りをしているうちに、樹木がうっそうと茂るジャングルへ入り込んでしまいます。



逆にトラに追われた将校は、ワゴーラー渓谷に逃げ込みました。



その時、「おや?よく見ると上のほうの岩肌に孔が・・・」



蔦をかき分け、その一つに入ってみると・・・



な、な、なんと!!


 


ジャングルに深く深く埋もれていた石窟は、こうして偶然に発見されました。


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■2期に分かれて建造された石窟群


アジャンター石窟は、馬蹄形の渓谷に沿って、岩を“横穴式にくり抜いて”造られています。


(対してエローラは、岩山を“上から掘り抜かれた”石窟が多く残ります。)



チャイティア(祠堂)とヴィハーラ(僧院)の2種類の石窟が、計30窟、紀元前2世紀から数百年かけて手彫りされました。


 


紀元後2世紀以降の400年間、いったん建造が止む時期がありますが、5世紀になり再度、新たな石窟が掘られるようになりました。


このため、石窟群は「前期(第一期)」と「後期(第二期)」の2つに分類されます。


『素朴な雰囲気、仏像なし=前期石窟』『装飾が多い、仏像あり=後期石窟』と大まかに見分けられます。


シンプルな石窟ほど古く、彫刻や壁画が多彩で凝っているほど新しい時代の石窟です。


一部の前期石窟にも、フレスコ画や立派なエントランスなどの装飾が残りますが、後の時代になってから追加されたものと考えられます。



1000年もの間忘れ去られていたことが幸いしてか、他の遺跡で見られるような異教徒による破壊を免れ、当時のままの美しい姿をとどめます。


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■アジャンター石窟を訪れるには


●場所


インド中西部デカン高原の都市オーランガバードから106km(車で片道約2時間)


(最寄りの国際空港はムンバイ)


 


●見学の流れ


駐車場から、まずは環境保護のために電気バス(片道55ルピー)に乗り換えます。



いろんな国の人々が乗ってきます。



降車後に入場券(250ルピー)を購入し、遺跡まで少し歩きます。



「たくさん歩くのはしんどい・・・」という方は、駕籠(有料)に乗って運んでもらうこともできます。



道は一本なので、行った道を折り返して戻ってきます。(平均所要時間:2~3時間)



 


第1窟~30窟まであり、建造時期には関係なく入り口から近い順に番号が振られています。


見学の順番は人それぞれですが、ほとんどの方は手前から順に入っていきます。


 


■ゆかりのひと


●玄奘三蔵(三蔵法師)


仏教研究の最高学府ナーランダ大学での学びを終えた7世紀半ば、“さらに見聞を広よう”と新たな旅に出かけ、アジャンタ石窟を訪れました。


 


●荒井寛方(あらい かんぽう)、野生司香雪(のうす こうせつ)


日本画家のお二方は、大正6年(1917年)にインドへ渡り、アジャンタ壁画の模写を行いました。


野生司香雪はその後、ベナレス近郊のサールナートにあるムーラガンダクティ寺院にて、「お釈迦様の一生」の壁画を描きました。



 


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アジャンタ石窟群/前期(第一期)【世界遺産】

2015年01月29日 13:53

■建造時期:紀元前2世紀~紀元後2世紀


仏教が広まった初期の時代、お釈迦様の教えを純粋かつ厳格に守る仏教僧の信心により造られた、祈りの場(チャイティヤ)と修行のための住処(ビハーラ)。


2200年もの昔、人々の手元にあった道具は簡単な木槌とのみだけ。


固い岩山を手彫りし100年以上かけて完成させた空間には、崇高さが漂います。


装飾が少なくシンプルな様相こそ、時代が古い証拠です。 


 


●チャイティア(祠堂)


第9窟


紀元前1世紀に造られた、比較的小規模な石窟です。


エントランス上部には、カーブが美しい切妻窓。


 ⇒


アショカツアーズのマークのデザインに拝借させてもらってます。



後期に比べると、ストゥーパも柱も彫刻の装飾が少ないシンプルなデザインです。


柱にはフレスコ画が残り、2000年も前のものとは思えないほどの色を保ちます。


 


第10窟


1819年の再発見の際、最初に見つかった石窟といわれ、イギリス人将校のサインがどこかに残ります。


石窟群の中では最も古い時代、紀元前2世紀に掘削されました。


第9窟の倍の広さがある大規模なお寺です。


 


●ヴィハーラ(僧院)


第12窟


約11平方メートルの広い空間と、左右・奥に各4つの部屋(僧房)があります。


 


第13窟


 第12窟に比べると狭く、全体で7つの部屋(僧房)があります。


 部屋の中を覗くと、岩を掘りぬいた石のベッドや枕が見られます。


 


第30窟


位置は第15、16窟の間にあり、1956年に発見された未完成の石窟。


 


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アジャンタ石窟群/後期(第二期)【世界遺産】

2015年01月28日 10:08


■建造時期:紀元後5世紀~7世紀


“人物を模った仏像”が初めて造られた3世紀以降の建造のため、後期のチャイティア窟には「仏像の彫刻」が多く見られることが、前期とは大きく異なる特徴です。


隙間なくほどこされた彫刻には、石匠たちの“静かで熱い魂”が、刻み込まれています。


洞窟の静けさの中、いにしえの時代にタイムスリップしたかのような感覚にとらわれます。


 


●チャイティア(祠堂)


第19窟


宮殿のような風格のエントランス。



神々やお釈迦様の像は、後の時代に追加で彫られたと見られます。



内部は、木造建築の天井の梁を模したデザインです。



ストゥーパの前面にも仏像が彫られています。


 


第26窟


一見、第19窟と似ていますが、奥深く掘られ隅々まで装飾をほどこされた、一層大きく豪華な石窟です。



最も遅い時期の5世紀末より掘削され、素朴なデザインの初期の石窟に比べると、隅々にまで緻密に装飾され、保存状態もよく残ります。


柱の上部も隙間なく彫刻がほどこされています。



柱の奥の壁には彫刻がぎっしり。



降魔図」とみられるお釈迦様の座像。



全長7mもの涅槃仏。



 


第29窟


  未完成です。


 


ヴィハーラ(僧院)石窟


第1窟


石窟群の一番手前にあり、後期を代表する石窟。


内部の壁面に描かれた蓮華手菩薩(菩薩:悟りを開く前のお釈迦様)。



この壁画はアジア各地の仏教美術にも大きな影響を与えました。(法隆寺金堂の壁画など)


その他、お釈迦様の前世の物語などが題材の壁画が残ります。


 


第2窟


仏像や壁画が残ります。


 


第3窟


 未完成です。


 


第4窟


奥に祠堂が作られ、お釈迦様の座像が鎮座します。


 


第5窟


 未完成です。


 


第6窟


 


第7窟


エントランスはどっしりとした構えの柱。



千体仏の彫刻。



奥の祠堂にはお釈迦様の座像。


 


第8窟


未完成です。発電室に使われています。


 


第11窟


奥に祠堂が作られ、お釈迦様の座像が鎮座します。


 


第14窟


未完成です。


 


第15窟


前期建造の第12、13窟と似ていますが、部屋があるのは左右の壁のみで、奥には祠堂のある造りです。


 


第16窟


16窟~26窟への階段の入口では2頭の象がひざまずいて迎えてくれます。 



 


第17窟


1500年前のものとは思えないほど鮮やかな色彩の壁画が残ります。




一人ひとりの表情が、とても生き生きしています。



お釈迦様の前世の物語(ジャータカ)が題材です。



複雑な唐草模様と幾何学模様の天井画。



隅々まで美しく飾られています。


 


第18窟


 


第20窟


奥に祠堂が作られ、お釈迦様の座像が鎮座します。


 


第21窟


 


第22窟~第25窟


 未完成です。


 


第27窟


 


第28窟


 


※第3、5、8、23~25、29、30石窟は未完成ですが、「建造の行程がわかる見本」として、これはこれで貴重な歴史的遺構です。



のみで少しずつ掘った跡が残ります。


 


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ルンビニ 降誕の地

2015年01月19日 09:59


お釈迦様は今からおよそ2,500年の昔、釈迦族の王子としてルンビニの地で降誕されました。ご誕生に際し、お釈迦様の母君マヤ夫人は天上界の満月から降下してきた6本の牙をもつ白象が、右脇腹から胎内に入る夢を見てご懐妊になられたと伝えられます。その後、マヤ夫人は当時のインドの習慣により、出産のため召使いたちと里帰りの途中、休憩のためルンビニに立ち寄ります。そして沐浴をされ、無憂樹に右手を触れられたとき、お釈迦様が誕生されました。(マヤ夫人は、お釈迦様の誕生1週間後にこの世を去られ、お釈迦様はマヤ夫人の妹であるマハプラジャーパティーにより養育されました。)


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お釈迦様生誕の地ルンビニは、1980年頃まで、訪れる人も少なく荒廃していましたが、その後遺跡公園として整備が行われ、1997年世界遺産に登録されました。


 


●お釈迦様誕生の地に建てられた マヤ堂


遺跡を覆う「マヤ堂」と呼ばれる建物は、時代と共に位置や形を変えてきましたが、ユネスコによる『ルンビニ中心部の遺構を覆うシェルター型の建造物を建築すべき』という進言によって、今日の姿となりました。


 


建物内部には、調査により検出された建造物の遺構がそのままの姿で残ります。古い時代の構造物の上に新しい時代のものが作られる過程が何度か繰りかえされたため、複数の時代の遺構が重なって残ります。



特に注目すべきは、1995年に検出され『お釈迦様がこの地で降誕された』ことを示すと言われるマーカーストーン(石碑)。堂のほぼ中心、紀元前3世紀(アショカ王の時代)と想定される地層で発掘されたことから、まさにここが「お釈迦様がお産まれになった地」であることを示す証拠とされています。



石碑の上には、4世紀グプタ王朝期に刻まれた石製のレリーフ「お釈迦様降誕像」が安置されています。イスラム教徒による破壊で表面の細かな彫刻表現は失われましたが、「マヤ夫人が無憂樹の枝に右手を触れた時に右脇腹より誕生されたお釈迦様を、梵天(ブラフマー神)が絹布を手にして抱き上げようとしている」場面です。



 


●マヤ堂の南にある池 「沐浴の池」


「マヤ夫人がお釈迦様を産む前に沐浴をされた」あるいは「お釈迦様が産湯に浸かった」といわれますが、実際には1933~39年に考古学的検証をともなわずに掘られたものです。かといって単なる創作というわけでもなく、この池に関する記述は様々な仏教文献に見られます。



5世紀この地を訪れた法顕は「佛国記」に『王妃が北方からお越しになり、水浴びをされ、身体を清められたのはここである』と残しており、三蔵は「大唐西域記」に『釈迦族の水浴び用桶である。その水は鏡のように光輝き、清らかである。水面は色とりどりの花で覆われている』と記しています。


 


●奉献ストゥーパー群


「ストゥーパー」とは、お釈迦様の舎利(遺骨)を納めるための施設で、(人の姿をした)仏像が考案される以前は“お釈迦様の象徴”として礼拝の対象とされました。



「奉献ストゥーパー」とは、在家の信者などが“仏教的徳を積む”ために建立したストゥーパーで、多くの仏教遺跡でみられます。


 


●アショカ王が仏教普及のため建立した アショカ王柱


お釈迦様の入滅からおよそ200年後の紀元前274年頃、マウリヤ王朝3代目アショカ王が即位しました。この時代、王朝はベンガル湾に面したカリンガー国を除いた北インド一帯を支配下に置いており、王はカリンガー国を征服するべく長期に渡る戦を行いました。ついには征服できましたが、双方に多くの死者・負傷者を出し、その悲惨な様子を見たアショカ王は、“武力による政治”から“仏教の理念に基づく法による政治”を目指すようになります。


そこで仏教の普及を図るため建立されたのが、「アショカ王柱」でした。継ぎ目のない1本の石柱で造られ、上部には獅子・牛・象など、仏教に関わりのある動物の彫刻が載せられました。下は、インドの国章にもなっている『獅子柱頭』で、サールナート考古学博物館に収蔵されています。(ルンビニにはありません) 



マウリヤ国領土に30本程建てられたと推定され、現在、断片のみのものを含めて15本が残ります。マヤ堂の西に残る石柱もその中の1つで、1893年に発見されました。




『神々に愛せられた温容ある王(アショカ王)は、即位20年後に、親しくこの地に巡幸参拝された。ここは仏陀釈迦牟尼の生誕地であるが故に、石で馬像を作り石柱を建立させた。神がここで誕生されたので、ルンビニ村は租税を免じ、生産物の八分の一のみ納めるものとされた』


石柱に残されたブラフミー語の碑文がこのように読解され、ルンビニが“お釈迦様の生誕の地”であることの裏付けとなりました。なお玄奘三蔵の大唐西域記に「柱頭部に馬の石像がある」と記録されていますが、現在は発見されていません。


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ルンビニでのご宿泊


●ルンビニ法華ホテル(1991年開業)


日本からの仏跡巡拝者が快適な旅行ができるよう、日本の「法華クラブ」により建てられ、現在は、他の仏教聖地(ブダガヤ・クシナガラ・ラジギール・サンカシャ)にもホテルを展開する「インパック社(インド)」が運営しています。



フレンドリーで気の利くスタッフたち。



中庭を中心に平屋建ての客室が並びます。



雄大な自然環境の中にあり、多くの野鳥を観察できます。餌付けしているクジャクが中庭にやってくることもあります。



全客室数27と、規模は小さいですが、和室(20部屋)には畳が敷かれ、お布団でお休みいただけます。



和食・ネパール料理・インド料理のレストラン。



僻地にもかかわらず日本米やお醤油などの材料調達をがんばっており、シェフの腕前もなかなかです。



日本からのお客様向けに、大浴場もあり、旅の疲れを癒してのんびり過ごせるホテルです。


 


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