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アショカツアーズ流インドの歩き方

お釈迦様ゆかりの聖地の記事一覧

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舎衛城(マヘト) コーサラ国の都

2015年01月08日 11:00

ジャイナ教を信仰していたコーサラ国のプラセナジト王は、祇園精舎にお釈迦様が訪れるようになると仏教を信仰し改宗しました。それ以降、ジャイナ教徒はお釈迦様への中傷を激化し、神通力を披露するよう迫りました。お釈迦様は舎衛城でこれに応え、一度に1,000の姿になったり(千仏化現)、足元から水・頭から炎を出したり(双神変)、マンゴの種を1日で大木にしてみたり、などされました。


祇園精舎近くの舎衛城(マヘト)は、外道であるジャイナ教の修行者とお釈迦様が神通力を競った、「舎衛城の奇跡」の舞台です。そしてもう一つ、「殺人鬼アングリマーラ」の逸話も残されています。


タキシラに留学経験もある秀才のアングリマーラは、舎衛城で師匠のバラモンに仕えていました。師匠の妻にもかわいがられましたが、その関係を怪しまれ、追放されてしまいます。行くところのないアングリマーラは、悪いバラモンに『100人を殺し、切断した指を糸でつなぎネックレッスにする』ようそそのかされました。そして、99人を殺害し、100人目の殺害を謀ります。その時、そこを通りかかったのがお釈迦様でした。「動くな」と言ったアングリマーラに、お釈迦様は「私は止まっている。動いているのはお前だ」と一言い言ったところ、その途端アングリマーラはひれ伏し、刃物を捨てお釈迦様に救いを求めました。プラセナジト王は、軍隊を出してこの殺人鬼を成敗しようとしましたが、アングリマーラはお釈迦様の弟子となっていたため、命だけは助けられました。遺族から、石をぶつけられたり、なぐられたりしましたが、お釈迦様は、アングリマーラに「ただただ、耐えるように」と説かれました。


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●コーサラ国の都跡 未発掘の遺跡群


古代北インドにあった16の国(十六大国)の中で、最も勢力が強いのがコーサラ国でした。もともとはアヨーディアに置いていた都を、お釈迦様の時代には舎衛城に移していました。



5世紀初めにこの地を訪れた法顕は、プラセナジト王の宮殿が残っていたことを記していますが、広大なエリアにわたる遺跡のほとんどは発掘されておらず、荒地のような状態のまま残され、子供達の遊び場となっています。


 


●殺人鬼アングリマーラのストゥーパ



城入口の近くに“パッキクティ”と呼ばれる、ストゥ-パがあります。1世紀頃建造が開始され、その後何度かの拡張が行われたため不規則な形をしています。法顕や玄奘は、舎衛城で起きた事件の説話から「アングリマーラのストゥ-パ」と紹介しています。


 


●京都祇園祭に縁の深い 牛頭天王の祠


祇園精舎と舎衛城の中間に、牛頭天王を祀る祠があります。



「牛頭天王」とは、天然痘など疫病を防ぐ、仏教以前の時代からの土着神です。


645年、舎衛城出身の法道仙人は、播磨の国にその分身を持ち込み、広峰神社(姫路市)に奉り、人々の治療に専念しました。その後、名声が京都に伝わり、牛頭天王は京都祇園の八坂神社に奉られる事になりました。そして同時に日本に伝わった「ラータ(インドの祭りで使われる古代の戦車)」は、現在、京都の夏の風物詩となっている祇園祭・山鉾巡行の「山車」となりました。


 


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祇園精舎(サヘト) 夏の逗留地

2015年01月07日 10:00


コーサラ国に、孤独な者・貧しい者に慈善を施すスダッタ(須達多)という豪商がいました。ある時、商用でマガダ国(ラジギール)を訪問した際、お釈迦様と出会い、それ以来、お釈迦様に深く帰依し、コーサラ国にご招待しようと決意します。しかしコーサラ国には、マガダ国の竹林精舎のようにお釈迦様をお迎えする立派な場所がありません。唯一、王子(祇陀太子)が所有するマンゴ園があり、スダッタは『その土地を買いたい』と交渉を重ねますが、王子は意地悪をして譲ろうとはしません。王子は『土地に黄金を敷き詰めたなら、その分だけ土地を譲ろう』と言い出します。これに対しスダッタは、本当に牛車で黄金を運び込み、樹園に黄金を敷き詰めました。


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こうして買収した土地に建設されたのが「祇園精舎」です。お釈迦様は、お悟りから入滅までの夏の時期、祇園精舎で25回を過ごされました。仏教に“雨安吾(うあんご)”という言葉があり、「一定期間集団で修行する」ことを意味しますが、これは、「夏=インドの雨季に、お釈迦様と弟子達が祇園精舎に逗留した」ことに始まります。雨季には道の上に虫や小動物が出てくるため、むやみに歩き回ると、これらを踏んでしまう機会が多くなりますが、一所に留まっていれば、無用な殺生をしなくても済みます。この考えは、当時、対立していたジャイナ教の“不殺生”の教義を、お釈迦様が『悪説にも一理あり』と取り入れたものでした。



---ジャイナ教について--- 


教側から見た正しい道を“内道”、正しくない道を“外道”といいます。当時、仏教以外の6人の思想家がおり、“六師外道”と呼ばれました。ジャイナ教の開祖マハヴィーラもその一人です。



お釈迦様とほぼ同じ時代、バイシャリ近くのクング村で生まれたマハヴィーラは、30歳で出家します。12年間の苦行の末に悟りの境地“ジナ”を得て、72歳で死去するまで、北インドで遊行しジャイナ教の教えを説いてまわりました。2500年を経た現在、信者450万人程度、人口の0.5%に満たない少数派の宗教となっていますが、インド各地で寺院(バサディ)がみられます。仏教が、インド国内ではヒンドゥー教に吸収合併され、日本・中国・韓国など海外で主に信仰されているのとは対照的です。最大の聖地であるグジャラート州シャトルンジャヤ山パリタナには今なお多くの信者が参拝に訪れます。



ジャイナ教には非常に厳しい戒律があり、その中心が、“不殺生”と“無所有”です。不殺生を貫くため、菜食主義であるのはもちろんのこと、収穫時に土中の小動物の命を奪わないよう、玉ネギ・ジャガイモ・ニンジン・大根など根菜類も一切口にしません。無所有に関しても徹底しており、僧侶は、衣服も含め一切の所有が禁止される「裸行派」、または薄い布の服を着る事のみが許される「白衣派」のいずれかに属します。現在でも、「裸行派」の僧侶は、南インドを中心に一糸まとわぬ素裸で生活をします。



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404年にこの地を訪れた法顕は、「佛国記」に『98の伽藍があり、そのうちの1つは7層であったが鼠が燈明皿を蹴り、火災が起こり消失した』などを記録しています。603年には玄奘三蔵が訪れ、「大唐西域記」に『すでに荒廃しており、煉瓦造りの寺院が1つと柱頭部に牛の彫刻を載せたアショカ王柱があった』などを記録しています。



その後、インドから仏教が忘れ去られると、他の仏跡地と同様に荒廃の一途を辿りましたが、19世紀後半以降、宗主国イギリス人考古学者らの発掘で遺跡の全容が明らかとなりました。さらに近年の仏跡参拝者の増加で整備が進み、今日の姿があります。



祇園精舎の遺跡は、かなりの広範囲にわたります。現存する遺跡群は、1世紀のクシャナ王朝以降の時代のもので、残念ながら、スダッタにより寄進された2500年前の祇園精舎そのものは特定されていません。


 


遺跡入口から300メートルほど進むと、菩提樹の大木があります。この樹は、目連が『付近に菩提樹の木が少ない』と、神通力により、一夜のうちにブダガヤから運んできたものであると伝えられています。



さらに進むと、ガンダクティー(香堂)があります。



母君マヤ夫人は、お釈迦様の誕生1週間後にこの世を去られ、お釈迦様はマヤ夫人の妹であるマハプラジャーパティーにより養育されます。悟りをひらかれたお釈迦様は、天上界の忉利天に居られるマヤ夫人に説法される事を念願されます。ある時、祇園精舎のガンダクティーから昇天され、3か月に及ぶ説法をマヤ夫人になされました。(その後、再び降りてこられたのが「三道宝階降下の地 サンカシャ」です。)お釈迦様が3か月間居られないことで、地上界は大騒ぎになります。コーサラ国王プラセナジトは、ショックのあまり病気になってしまいました。そこで、等身大のお釈迦様の像を作ったところ、王の病は治りました。


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伝説によると、この時に刻まれた仏像は鳩摩羅什により中国に持ち込まれ、入宋していた東大寺の僧ちょう然(ねん)が983年に模刻を日本に持ち帰ったのが、京都嵯峨野の清涼寺の釈迦如来像であるといわれます。


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1985~1989年、関西大学の100周年の事業として「仏教の遺跡を、キリスト教徒・ヒンドゥー教徒以外の力で発掘しよう」との趣旨で、網干善教氏(関西大学名誉教授)による発掘調査が行われました。当初期待された「牛の像を柱頭部に載せたアショカ王柱(『大唐西域記』に記録あり)」は発見に至りませんでしたが、ガンダクティーの裏に「紀元前1世紀の巨大な沐浴池」、「ストゥーパー(複数)」、「煉瓦敷きの広場」、「僧院跡」、「グプタ王朝期の完全な形の井戸」などの遺構を検出しました。



検出された遺構は、現在、まだあまり整備が進んでいない状態で残っています。



 


●祇園精舎でのご宿泊


パワンパレス



以前は設備の整ったホテルがなく訪れるのも容易ではありませんでしたが、近年、比較的良好な宿泊施設も増えてきました。



パワンパレスもそのうちの1つで、全客室数47と比較的大きなホテルです。



お部屋にテレビや冷蔵庫がない等、設備的にはまだまだですが、衛生面・安全面では安心して快適にご滞在いただけます。



 


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サンカシャ 三道宝階降下の地

2015年01月06日 10:00

お釈迦様の誕生1週間後に、母君マヤ夫人はこの世を去られました。悟りを得られたお釈迦様は、天上界の忉利天に居られるマヤ夫人に説法される事を念願されます。ある時、祇園精舎のガンダクティー(香堂)から天上界に昇り、マヤ夫人に3ケ月間の説法教化をなされ報恩を果たされました。お釈迦様が3か月間居られないことで、地上界は大騒ぎになります。コーサラ国王プラセナジトは、ショックのあまり病気になってしまいました。その後、再び地上界に降下された場所が、サンカシャです。その際、3つの階段が天上界から築かれ、中央の黄金の階段からお釈迦様が、右側の白金の階段から払子を手にした梵天(ブラフマー神)が、左側の瑠璃の階段からお釈迦様に天蓋を翳した帝釈天(インドラ神)が降下されました。


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サンカシャまではアグラから車で約5時間、鉄道駅エタワからは車で約4時間を要します。近づくにつれ、悪路になってきます。他の聖地から地理的に外れ、交通の便も良くないためか、訪れる巡礼者は多くありません。八大仏跡の中で、最も素朴なたたずまいにあります。


 


●アショカ王柱とストゥーパ


畑の中の田舎道をしばらく進みサンカシャの聖地に入ると、最初にスリランカ寺があり、その先に、大きな菩提樹と、アショカ王が仏教布教のため建立した「アショカ王柱」があります。



柱頭部に載せられていた象の彫刻が残っています。顔面が破損しており、説明がなければこれが「象」であるとはわからないかもしれません。



さらに進むと、崩れかけた四角形のストゥーパーがあります。



法顕や玄奘がサンカシャを訪れた時には、『伽藍もあり1,000人以上の僧が居た』と記録されています。しかし今日、往時をしのばせるものは、ほとんどありません。


 


●ヒンドゥー教の祠堂


ストゥーパからさらに上、整備されていない坂道の頂上に、ヒンドゥー教の土着信ビサリ・デビを奉った祠堂があります。



 


●サンカシャでのご宿泊


ロイヤルレジデンシーホテル(2011年オープン)



以前はスリランカ寺の宿坊以外、泊まる場所がありませんでしたが、ようやくホテルが完成しました。


アグラからの日帰り観光が多いのですが、昼食に暖かいお食事をご提供できるようになりました。(夏期は休業のため、アグラからお弁当を持参します。)


ホテルに併設して、日本寺があります。



日本人僧侶の方が、“聖地サンカシャに祈りの場をつくりたい”と発願し建立されました。



サンカシャにお越しの際は、是非お参りください。


 


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バイシャリ 猿王奉蜜の地(第二結集の地)

2015年01月05日 10:00


竹林精舎と祇園精舎を拠点に遊行し、教えを広めたお釈迦様は、何度となくバイシャリに立ち寄られました。ある時、お釈迦様一行が托鉢をしていると、猿の王がマンゴの蜜を集めお釈迦様に供養しました。


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バイシャリは、リッチャビ族が治めていた国の都で、猿王がマンゴの木から蜜を集めてお釈迦様に奉納した“猿王奉蜜”の舞台です。また「BC337年に第二結集が行われた地」でもあります。お釈迦様の入滅後に8つに分骨された舎利の一部をめた『リリック・ストゥーパー』等、多くの遺跡が残ります。


●バイシャリ遺跡群


バイシャリは、かつてマウリヤ王朝の都が置かれた「パータリプトラ」(現在のビハール州都パトナ)からガンジス河を越え、北へ約80㎞に位置します。ガンジスのスケールの大きさを体感できる、全長5575メートルの大橋梁を渡って訪れますが、橋が開通する1982年以前は、連絡船で1時間30分をかけ河を渡っていました。(お釈迦様がしばしばここを渡られた事から、“ゴータマの渡し”と呼ばれていました。)



バイシャリの遺跡群からは、紀元前2世紀から紀元後5世紀のグプタ王朝期までの、僧院・ストゥーパー・奉献ストゥーパーなどが折り重なるように発掘されています。柱頭部に獅子の像を載せたアショカ王柱も1本残りますが、このアショカ王柱については、アショカ王以降の時代につくられたとの説もあります。(アショカ王:マウリヤ王朝3代目、カリンガーの戦いで戦争の無常さを悟り、仏教を保護し社会福祉の充実に尽力した名君として知られます。)




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●リッチャビ族が仏舎利を納めた リリック(RELIC=ご遺骨)・ストゥーパー


涅槃に入られたお釈迦様は、荼毘に付され舎利は下記の八国に分けられ、さらにアショカ王により7か所のストゥーパ(龍王が保護したラーマガーマのストゥーパを除く)が発掘され、取り出された舎利が84,000箇所に分けたと伝えられます。


 1. クシナガラのマルラ族
 2. マガダ国のアジャンタシャトル王
 3. バイシャリのリッチャビ族
 4. カピラ城のシャカ族
 5. アラカッパのプリ族
 6. ラーマガーマのコーリヤ族※
 7. ヴェータデーバのバラモン
 8. バーヴァーのマルラ族


その一部を持ち帰ったリッチャビ族は、バイシャリ遺跡群から約3キロ離れた場所にあるリリック・ストーパーに舎利を埋葬しました。




直径12メートルのストゥーパーの基壇の部分のみが、かろうじて残ります。1957年に行われた発掘調査で、石製舎利容器、小さなほら貝、ガラス玉2個、銅貨1枚などが検出されました。舎利容器にはわずかに人骨が納めらており、アショカ王による発掘の際に残されたものと考えられます。容器と仏舎利は現在、パトナ博物館に収蔵されています。貴重な遺跡であるにもかかわらず、発掘後は雨ざらしの状態で長い間放置されていましたが、今はトタンの屋根がつけられています。



池をはさんだ正面に白色の日本山妙法寺の仏塔があります。


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猿王奉蜜の話をテーマにした彫刻は、ガンダーラにもみられますが、サンチー第1塔の北のトラーナ(門塔)の作品が特に秀作です。アグラの南約500キロに位置するサンチーの遺跡では、時間的に別々の場面を、1つのパネルの中に表現する彫刻が多くみられます。「鉢に入れた蜜をお釈迦様に捧げている場面」と、「それをお釈迦様に受け取ってもらい喜ぶ猿王」が、1枚のパネルの中に表現されています。その喜び方が、現在の“ガッツポーズ”と全く同じなのには驚かされます。



この作品では、お釈迦様をパネル左上の台座の上の「菩提樹」として表現しています。仏像が考案される以前の彫刻では、お釈迦様は「菩提樹」・「法輪」・「仏足石」・「ストゥーパー」などで表現されています。これは『本質は、修行によって人それぞれ心の中で理解するもの』という古代インドの考え方があった事と、あまりに尊いお釈迦様を、偶像化する事への抵抗があったためでした。


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●バイシャリでのご宿泊


バイシャリ・レジデンシー(2011年オープン)



このホテルが建つ以前は、まともな宿泊施設がなく、バイシャリの観光はパトナからの日帰りやパトナ~クシナガラの移動の途中に行うかのどちらかでした。現在は、宿泊しての旅程を組む事も可能となり、少し離れた場所にあるケサリアも訪問しやすくなりました。



現在のバイシャリは、小さな農村です。


霊鷲山 晩年止住説法された地

2015年01月04日 10:30


冬の期間、お釈迦様は霊鷲山に多く留まられ、法華経をはじめ大無量寿経、般若経など説かれました。仏典に『釈尊は常に霊鷲山にあり』などとよく表現されています。お釈迦様が自身の涅槃(死)を直感されたのは、涅槃の3ヶ月前、ラジギール滞在中でした。


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香堂から見える岩の形が1羽の鷲の姿に見えるといわれるのが、名前の由来です。霊鷲山は、ラジギール盆地を取り囲む、ウダヤギリ・ソーナギリ・ヴァイバーラギリ・ヴィプラギリ・ラトナギリの5山のうちの、ラトナギリの中腹にあります。(「ギリ」は「山」を意味します。)



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中国の『五台山』は、ラジギールの地形に似ていたため、文殊菩薩の霊場に定められました。これが鎌倉時代・室町時代に日本に伝わり、臨済宗を中心とした「五山の制」へと発展しました。
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19世紀、カニンガムなどのイギリス人学者によって、仏跡地の場所が考古学的に次々と証明される中、霊鷲山の場所は長らく謎のままでした。これを解明したのが、西本願寺第二十二世 大谷光瑞法主が率いる調査隊(大谷探検隊)です。ジャングルの中にテントを張り、「大唐西域記」に玄奘三蔵が残した“朝日と山との位置関係”の一致をみて、ついに1903年、霊鷲山の位置を確定しました。



お釈迦様は香堂に留まられ、法華経・大無量寿経・観無量寿経・般若経などを説かれました。



香堂の下には、アーナンダ等弟子達が瞑想・修行したであろう洞窟が残ります。



マガダ国の王ビンビサーラは、王舎城から霊鷲山に通じる山道を歩き、お釈迦様の説法を聞きに来ました。私たち巡拝者も歩むこの山道は、ビンビサーラ・ロードとも呼ばれます。



登山道はそれほど急ではありませんが、石段を1時間弱歩きます。駕篭(有料)もあります。



 


●日蓮宗のお寺 「日本山妙法寺」


ラトナギリの稜線を山頂の方に進むと、白い大きな仏塔があります。1969年に藤井日達上人により建立されたお寺です。



 


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