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アショカツアーズ流インドの歩き方

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考古学博物館 サールナート出土品を展示

2015年01月13日 10:13


サールナート遺跡のすぐ近くに、出土品を収蔵する考古学博物館が建っています。小規模ながらインド第一級の文化財が展示されており、一見の価値ありです。


 


■【柱頭四頭獅子像】



遺跡エリアに残るアショカ王柱の上部に載せられていた彫刻が、博物館の入口正面に展示されています。マウリヤ王朝期の作品で、博物館内では最古の彫刻作品です。下部には「蓮弁」があり、その上に「獅子-法輪-象-法輪-牛-法輪-馬-法輪」が彫刻されています。


この像が表すものには、それぞれに意味や由来があります。


 四方を向いた4頭の獅子・・・『世界中にあまなく仏教が広がるように』という念願


 法輪・・・お釈迦様の最初の説法(初転法輪)


 四大聖獣
 獅子・・・お釈迦様には「釈迦族の獅子」の異名があった
 象・・・マヤ夫人がお釈迦様を懐妊されるとき白象の夢をみた
 牛・・・お釈迦様の「ゴータマ」という名前には「最良の牛」という意味があった
 馬・・・お釈迦様の出家は馬に乗って行われた


インドの国宝の中でも最も重要な作品で、インド政府の国章ともなっています。お札にも印刷されています。



 


■【転法輪印仏陀坐像(初転法輪像)】


ガンダーラ・マトゥーラで1世紀頃考案された仏像は、5世紀を中心としたグプタ王朝の時代に、最も洗練された様式美を完成させました。その中の最高傑作の1つが、サルナートから出土し、考古学博物館の左館の一番奥に収蔵される転法輪印仏陀坐像でしょう。(写真は、ムラガンダクーティ寺院内に奉られたレプリカです。)



お釈迦様の「初転法輪」を表す像で、その表情は端正で慈愛に満ちています。大型の光背の上部には“飛天”が刻まれ、光背の下の両脇には“伝説の魚マカラ”、その下には“有翼の獅子レオ・グリュフ”が表現されます。印相(手の形)は「転法輪印」を組み、台座の中央には“法輪”、両脇に“五比丘”、“初転法輪を五比丘とともに聞いた鹿”が表現されています。“左端の女性と子供”はこの作品を寄進した在家の親子だと考えられます。 


その他、仏陀や神々の像、仏教説話のレリーフなど、さまざまな彫刻が展示されています。





 


入口でX線検査を受けて入場します。館内は写真撮影禁止で、カメラやビデオなどの撮影機器は一切、持ち込めません。



※当社企画ツアーでは、サールナートを訪れる日が休館日(金曜)にあたる場合、ご見学いただけません。


 


<<< サールナートを訪れるツアーはこちら >>>

ムーラガンダクティ寺院 野生司香雪の壁画

2015年01月13日 10:11


サルナートでの初転法輪の後、お釈迦様はラジギールと祇園精舎を拠点にされ、世に仏法をお広めになりました。そして何世紀もの年月をかけ、スリランカやタイ、中国、韓国、日本へと伝えられました。仏教は、インド国内では衰退してしまった一方で、外国ではそれぞれの国や民族の文化にあわせて形は変わりつつも根付いています。サールナートは今日、インドだけでなく世界中の仏教徒にとって大切な聖地となっています。


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スリランカ人僧侶ダルマパーラ師は、初転法輪の地・サルナートに再び祈りの場をつくろうと「マハボディ・ササエティー」を組織し、1931年に寺院を建立しました。入口直上に、日本仏教連合会から寄進された梵鐘が吊るされ、清水寺管長であった大西良慶師による文字が記されています。そして内部の壁面には、日本人画家、野生司香雪(のうすこうせつ)による、お釈迦様の生涯がテーマの躍動感溢れる壁画が描かれています。


~野生司香雪(のうす こうせつ)画伯~香川県出身の日本画家、父は浄土真宗の僧侶。東京美術学校(現東京芸大)卒、長野善光寺の雲上殿壁画(昭和22年)を手掛けました。アジャンタ壁画の模写を手伝った経歴(大正6年)と、詩人タゴールと交流が縁で、昭和7年に、サルナートのムラガンダクティ寺院に派遣され、お釈迦様の一生の壁画を描きました。(1885-1973)




寺院横には「初転法輪を行うお釈迦様と五比丘」の像があり、菩提樹の大木が茂ります。この樹は、寺院落慶の際に、スリランカ・アヌダラプーラの「スリマハ菩提樹」から株分けされたもので、ブダガヤの金剛宝座の上に茂る聖木の“兄弟”にあたります。




 


<<< ムーラガンダクティ寺院を訪れるツアーはこちら >>>

ニガリーハワー 前世の過去仏の誕生地

2014年12月28日 10:00


古代の仏教では『お釈迦様が悟りを開いたのは、前世である「過去仏」の功徳が累積した結果』と考え、お釈迦様のみでなく、過去仏も礼拝の対象として重要視されました。これは仏教の根本理論の一つである「輪廻転生」の考え方で、『前世の功徳が大きさにより、来世が決定づけられる』という思想によります。


「釈迦の前世の過去仏」とは、以下の七仏です。(「七仏」にはお釈迦様も含まれるため、前世は「六仏」です。)


① 毘婆尸佛(ビバシブツ)
② 尸棄佛(シキブツ)
③ 毘舎浮佛(ビシャブツ)
④ 倶留孫佛(クルソンブツ)
⑤ 倶那含牟尼佛(クナゴンムニブツ)
⑥ 迦葉佛(カショウブツ)
⑦ 釈迦牟尼仏(シャカミニブツ)


ティラウラコットの北東5.5㎞に位置するニガリーハワーは、第5仏「倶那含牟尼佛」生誕の地とされ、アショカ王柱が建てられました。現存する2本の内1本の碑文には、『ピヤダシ王(=アショカ王)は戴冠14年を記念して、倶那含牟尼佛のストゥーパーを拡大し、戴冠20年を記念に敬意を払い石柱を建立した』と刻まれています。なお、横たわる石柱に残るチベット文字と孔雀の彫刻は、後世に刻まれたものです。


※ニガリーハワーへの道は整備がされておらず、道路の損壊や雨期の冠水により、たどり着けない場合があります。

第一結集の地 七葉窟、第三結集の地 クムラハール

2014年12月27日 10:00

お釈迦様が説法で説かれた御教えは、当初は弟子達が記憶していただけで、体系的に文書として記録される事はありませんでした。それではやがて「歪みが生じ」、「将来的に正しい教えが継承されない」可能性があったため、弟子やお釈迦様に関係した人達が集まり、お釈迦様の教えを整理・記録をする『結集(けつじゅう)』という作業が行われました。


第1回目はBC477年にラジギールにて、100年後(BC377年)にバイシャリにて第2回、さらに133年後(BC244年)にパータリプトラで第3回、と合計3回行われました。


 


●第一結集 七葉窟



アジャータシャトル(父であるマガダ王ビンビサーラの殺害という、最大の親不孝をはたらきながら、改心しお釈迦様に帰依するようになった)が主催者となり、結集が行われました。当時存命だったカーシャパやアーナンダなどの弟子達と、高僧500人が集まりました。その場所といわれるのがラジギール近郊、ヴァイバーラ山中腹にある奥行36メートルの自然にできた洞窟「七葉窟」です。



奥に行くほど狭くなっており、「500人がここで一同に会した」とはにわかに信じられないところではあります。


 


※七葉窟へは長い山道で、霊鷲山と比べてもかなりハードです。また往復に相当な時間を要するため、通常ツアーでは訪れません。


※パッケージツアーの基本プランには七葉窟の見学は含みませんが、ラジギールで延泊をされますと、訪問が可能です。


<<< ラジギールを訪れるツアーはこちら >>>


 


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 ●第三結集 クムラハール(鶏園寺)


バイシャリ第二結集が行われた133年後、マウリヤ王朝の都パータリプトラ(現在のパトナ市)のクムラハール(鶏園寺)で結集が行われました。


アショカ王の呼びかけで1000人の僧侶が招集され、経・律・論がまとめられました。


 


  -- マウリヤ王朝の勃興 --


BC330年、アレクサンドロス大王は、ペルセポリスに攻め込みアケメネス朝ペルシャを滅ぼし、さらに東進し、ガンダーラなどインダス河流域も支配下に組み入れました。


しかし形勢は逆転し、アレクサンドロス大王はバビロンで客死し、シリア王セレウコスがこれらの地を支配するようになりました。


ちょうどこの時期、インドではチャンドラ・グプタがマガダ国を滅ぼし、セレウコスと象500頭と引き換えに、ヒンドゥークシ山脈以南・西北インド一帯を入手し、マウリヤ王朝を興しました。


 


  -- アショカ大王の仏教帰依 --


マウリヤ王朝3代目アショカ大王は、祖父から引き継いだアフガニスタンから北インド全域の領土に加え、カリンガー国の領地だったベンガル湾岸地域も支配下に置こうと、カリンガーの戦を仕掛けます。


アショカ大王は、この戦いで戦争の悲惨さを実感し、仏教に帰依しダルマ(宇宙の法)による政治を行うよう、路線変更を行いました。


 


クムラハール遺跡からは、研磨された光沢のある80本以上の列柱をもつ“百柱の間”が発見されています。



その形状は、ペルセポリスのアパダーナ(謁見の間)と類似しており、アショカ大王はアケメネス朝ペルシャと活発な交流があった事を示しています。


 


※パッケージツアーの基本プランには、クムラハールの見学は含みませんが、パトナ経由でラジギールやバイシャリを訪れるコースに追加で組み込むことも可能です。(延泊が必要な場合もあります。)


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ナーランダ大学【世界遺産】 玄奘三蔵の旅の目的地

2014年12月26日 13:32

追記:2016年7月、世界遺産に登録されました!



インドへの旅の先駆者といえば、「玄奘三蔵(三蔵法師)」。


唐(現在の中国)の僧であった玄奘は、今から1385年前(AD629年)、いくつもの峠や山脈を超え、あこがれの天竺(インド)に至ります。当時の唐では外国に行くことは法で禁じられていましたがたが、それを犯してまでもこの地を目指しました。飛行機も車もない時代、どれほど困難で危険を伴う冒険だったことでしょう。


17年もの間、中央アジアやインドの仏教ゆかりの地を巡礼した玄奘は、AD645年に経典や仏像を持って帰国し、旅の見聞録として翌年に著したのが「大唐西域記」。


そこに記された内容は、現在では貴重な歴史資料となり、仏教遺跡の発掘・研究に役立てられています。私達が今日、仏教遺跡を訪れることができるのも、“玄奘三蔵が旅の記録を残してくれたからこそ”であり、仏跡巡拝は「玄奘三蔵が歩いた道を辿る旅」ともいえるでしょう。


 その玄奘が「旅の最終目的地」としたのがナーランダ大学です。


 



--紀元前5世紀:基礎となる精舎の寄進--


500人の商人がアムラ長者からナーランダの土地を購入し、精舎を建設してお釈迦様に寄進しました。


--5世紀:総合大学へ--


精舎はいつしか仏教研究の場となり、グプタ王朝クマラ・グプタ1世が、本格的に総合大学へと発展させます。東方のヴィクラマシーラ大学とともに、「世界最古の大学」のひとつがここに創られました。学部は仏教学、ヴェダー学、医学、冶金学、数学、音楽学など合計12あり、教授は2千人、1万人余りの学生が学んだといわれます。



--7世紀:玄奘三蔵が留学--


学長シーラバトラ(戒賢)は、ある時、天人からお告げを受ける夢をみました。『中国から1人の求道僧がやってくる。その求道僧にはきっちりと教えなくてはならない。』一方、国禁を犯して唐を出発した玄奘は、ナーランダ大学を目指しながら、途中あちこち立ち寄って旅をし、636年、留学を果たします。この話を玄奘にしたところ、夢を見たのは、玄奘が長安を出発したのと同じ年(629年)でした。玄奘は5年滞在し、最終的には副学長を務めます。


--12世紀末:歴史に幕--


その後数世紀にわたり、南アジアの最高学府の地位を保ち、様々な学問が行われましたが、12世紀末、侵攻してきたゴール王朝バクティヤール・ハルジーのイスラム部隊による焼き討ちにあい、1500年以上の歴史に幕を下ろします。大学の蔵書が燃え尽きるのに6か月を要した、とも伝えられています。


 


--21世紀:遺跡が発掘され、仏教徒の巡礼地に--


遺構は「礼拝所(チャイティア)」と「僧院(ビハーラ)」に大別されます。さらに「食糧庫」や「かまど」、「排水溝」などの設備跡も残ることから、当時の最先端の学問の場として、環境が整えられていたことがわかります。


25ヶ所ほど残る礼拝所(寺院、祠堂)のなかでも、ひときわ高くそびえ印象的なのが、「第3号寺院(下の写真)」です。



礼拝所には、仏像を安置する空間(仏龕/ぶつがん)が残っています。中に安置されていたであろう仏像は、イスラム勢力の破壊によりほとんど残っていません。




僧院(学生=修行僧が生活するところ)は、広い四角形の構造です。中心の広間を取り囲むようにして、四畳半程の小部屋が一辺あたり10戸ほど並びます。広間で講義を聴き、周りの小部屋で寝食を共にしながら生活を送っていた学生たちの様子が想像できます。



小部屋には石製のベッドがしつらえてあります。



講堂には井戸もあります。



数百年に渡る歴史の中、古い建物の上に重ねて新しい建物が作られてきました。このため遺構の下の部分ほど、より古い時代のレンガが残ります。(色やサイズで時代の違いを見分けられます。)



敷地は広大で、まだ発掘されていない遺跡が森の向こうまで広がっているといわれます。



※発掘調査により、深く掘り下げられている箇所も多くあり、遺跡内に大きな段差があります。 見学の際は足下にご注意ください。


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